読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

点尊降臨!

「ぼくが何者であるかは、お前が決めれ!」 なんか創る人をやってます。

「空気読む」というディスコミュニケーション

「空気を読めない」とよく言われる。しかし、そんなに空気を読んでどうするの? って思うのだ。

 

1年ほど前のことだ。その日ぼくはとある女性とデートしていた。その女性とは気が合うというわけではなかったが、とりあえずの精神で誘ってみたのだ。やはり元々気が合わないということもあって、内容は散々だったしそれからその人との付き合いはしたくないなと思うに至った。人間として付き合うのが無理と判断したのだ。その一番の理由が「対話」ができないだった。

 

その女性からぼくは執拗に「空気読めないな」と指摘された。はあ、まあ読む気がないですが何か? と思いながら話しを聞いていた。伝えたいことを察してほしいというハイコンテクストを他人に求めるのは、傲慢ではないかとぼくは考えているので、「空気読めない」という概念自体がぼくには希薄なのだ。当の本人はぼくに何を察してほしかったのかはわからない。それを尋ねても答えないのだから、コミュニケーションなんて一切成り立たない。

 

「空気読む」こと至上主義の人にとって、このエピソードは痛々しいだろう。痛々しいと言われればそれまでだ。しかし、このエピソードには日本人が「対話」慣れしていないという事実が含まれている。

 

そもそも日本は開国する江戸末期までほぼ日本国内、いや藩の中だけのコミュニティで一生が成り立っていた。まあ、人の移動が一切なかったわけではないけれど、同じ言語、同じ文化の中で過ごして来た。開国後、明治、大正、昭和を経て様々な文化、つまり異なる言語と文化を持つ外国人が入って来たのだ。対外戦争の経験として自国に攻め込まれたのは、蒙古襲来、薩英戦争、第二次世界大戦くらいだろう。大陸のように国同士が陸続きでないため、異文化との摩擦はそれほど多くなかった。

 

大陸では異文化同士の摩擦が歴史的に頻発していたため、対話をして相手が敵なのか味方なのかの区別や共通項を見つけ和解、協力することが求められる習慣ができた。しかし日本ではほぼそんな必要はこれまで感じることはなかった。

なぜなら、日本は異文化との摩擦をほとんど経験していないからだ。そのため日本は他国と比べると、言語に含まれる意味がほぼ似通っているハイコンテクストな社会となった。今のところその実情は変わっていない。

 

しかし今後は違う。ハイコンテクスト社会からローコンテクスト社会へ潮目が変わる時期になっている。外国のようなローコンテクスト社会になるかは別としても、これまでのようなハイコンテクストな社会ではいられない。すでにローコンテクスト化してきているわけだ。でも残念ながら、その事実に気がついている人は少ない。

 

ぼくがこの事実に気がついたのはTwitterでとあるやり取りを外側から観察していた時だった。Twitterという140文字同士のやり取りで議論や対話のやりとりがすれ違う様を見てきた。その原因は話者同士の主題にたいする「前提」が相違していたのだ。どちらも自分の前提を元にしてやりとりしているので、話しが噛み合ないのだ。これは普段の会話でも起こることだが、主題に対する「前提」が噛み合ないならその対話はすべてすれ違いが続く不毛で利益の無いものになる。前提が相違すると質問も的を得ないし、回答も的を得ないものになる。まずはお互いの前提をすり合わせることなんだけど、対話方法を習っていないのだからなかなかうまくはできない。知識人であっても、対話技術が低い人は多いとぼくは見ている。

 

対話には相手の考えを聞き出す技術と忍耐が必要だけれど、ハイコンテクストに慣れるとそんな技術も忍耐もない。だから「空気読めない」という言葉が使われるのだろう。

 

現在の日本はなんだかんだ非常に豊だと思う。様々な思想や音楽や文化が入ってきていて、人の趣味が多様化し人の思想も多様化している。それに外国人で日本に住む人も増えている。つまりすでにお互いのコンテクストの相違点は昔に比べると増えているわけだし、全く違うコンテクストを持っている人たちとの遭遇率も上がっているわけだ。

 

ハイコンテクストであれば難しいこと考えなくても良いし、口を開いてわざわざ伝えなくても良かった。でも今はどんどんローコンテクスト化していっているのだから、お互いの違いと共通点を確認する技術と忍耐が必要とされてきているとぼくは考えている。つまり時代の趨勢は「空気読め」という時代から変わろうとしているのだ。

 

さて、冒頭の女性であるが、とあるお好み焼きへ行った際、彼女は自己満足のため他人の分を含め、お好み焼きの写真を全て撮るまで食べることを周囲に禁じたことがあったらしい。しかも何度も取り直しをしたらしく、中にはお好み焼きの底が焦げた人もいたらしい。それから周囲の人は彼女との外食を面倒だと思うようになった。たぶん彼女とその時共にいた人たちでは「食事」に対する文化やコンテクストが違ったのだろう。彼女が空気を読めていればこの文化的な衝突は起こらなかったのだろうし、または周囲が対話で説得をしていればまた違った結果になったかもしれない。これは空気読めないやつの空気に仕方なく合わせてあげようという空気を、周囲が察し同意したのだろう。

 

空気を読まなきゃいけない文化では「言わなくてもわかるだろう」が蔓延する。それって結局コミュニケーションをサボってるのと同じなんだよ。そして今後は外国人の流入、文化の多様化によって価値観の違うひとが今よりもたくさん増えると思う。その時に「空気読めない」とひとことで片付けてコミュニケーションをサボるよりも、「対話」によって相互理解を深めコミュニケーションを試みた方が平和になると思う。「対話」の技術が今後はどんどん求められるよ。他人に「空気読む」ことばかり要求するあなたにはその空気を読む気ある?