点尊降臨!

「ぼくが何者であるかは、お前が決めれ!」 なんか創る人をやってます。

前回の記事とかぶるけど、自分のものの見方の一片を書いてみた

みんな違うからこそ大変な21世紀に生きてるなと思う。
様々な意見がテレパシーというよりダダモレパシー化していってることを、特にぼくは感じて生きている。その中には非常に極端な意見や、嘘、本当、水増した内容などが含まれている。
特にFacebookのタイムラインは目に付く。目につくようにできているからなのだろうけど。そこには肩書きに騙されやすい人間心理や、自分の不安を肯定してくれる人の意見を無条件に受け入れてしまう人間心理が働いている。それが人間なので仕方ない面はある。これを書いているぼくにだってそういった失敗はあるし、今後も失敗するだろう。
 
 
ぼくは「常識」と書いて「糞食らえ」と読むことにしている。「正義」は「劇薬」だと思っている。「肩書き」は「高価な食器」で必ずしもその中身が食器の価値に見合うわけではないと考えている。
「常識」はたしかにある方が良いだろうけど、「常識」にこだわりすぎると思考停止する。常識なんてものは所変われば内容が変化する相対的なものなので、そこに捕らわれたがる意見に辟易しているのだ。
そして正義については、やはりそれを声高に主張する人たちの排外性を見ると「劇薬」だから取り扱い注意だなと思う。
肩書きは自分が代表という肩書きを持っていた経験から、肩書きはその人の本質を表さないと悟ったのだ。まあ、まったく意味がないものではなく、肩書きを見て盲信しちゃいけんよということなんだ。参考にはなるだろうけどね。
 
 
先日書いた「真摯さ」についてだが、真摯さというのは物事に向き合う覚悟を含めた姿勢だと思う。中途半端な知識で危険を煽ったりする人が目につくけど、そういう人は自分が書いた記事を書く前に調べるべきことや知っておくべきことを知らないケースが散見される。得てしてそういう人は持論のおかしなところを指摘されると、まともな反論ができない。なぜなら反論するだけの知識がないのだから、反論しようがないからだ。そんな人の中には「ネトウヨ」「サヨク」「キチガイ」などとレッテルを貼って、支持者に自分正しいアピールをする人も多い。そういった人の反応見ると、カルト宗教のように見える。持論への批判に対し説明義務はないにしても、説明するのは真摯さだと思うのだけど違うのだろうか?
 
 
ぼくらはすべてのことを知ることはできないし、勉強する時間も限られている。それでもやっぱり「知ろうとすること」はすごく大事だ。でも知ろうとする以前の知識の問題もやはりあるなと、最近感じる。特にここ4年ほどでその重要さを痛感している。そのせいか、友人知人の投稿内容すら鵜呑みにするのを辞めた。そしてそれにも当然理由があって、今は誰でも発信できる時代で、その情報量がとんでもなく激増しているからだ。そして、ぼくらは「ものの調べ方」を教わってはいない。そのためか日本人の大半の人は物事をどう調べれば良いのかを知らない。経験則的に身についている人もいるけれど、それは無意識で使っているから限定的にしか利用されていない。例えば、仕事でしか利用されていない。まあ本来ものを調べて伝える仕事であるはずの新聞記者や事象ジャーナリストが酷い記事を書いているのだから、よっぽど調べる技術の基礎を知らないのだろう。例えば昨年発覚した朝日新聞の「プロメテウスの罠」での吉田調書の内容を捏造した件。あれは偏向報道の最たるものだと思う。ぼくは嘘やデマで批判をすることは批判対象の後押しにしかならないとぼくは考えている。そんな意味でも朝日新聞には大いに失望した。
 
 
ぼくらは判断に迷うし間違うこともある。間違った時に謝ることや修正ができるかが、これからの時代には大事になってくると思う。だから自分が「正義」になってしまうと、自分に反対する者はすべて「悪」になるから、修正なんてできなくなるし、謝ることもできなくなる。それは嫌だなと思う。だからこそ「無知の知」(ソクラテス)を意識するべきだし、自分と異なる意見に耳を傾けなければいけないんだなと思う。これは自戒を込めて、そう思う。
 
 
これを読んでいる人間がどれくらいいるかは知らない。文だけだから読まない人もいるだろうけど、あえてそうしている。これから時々、ぼくが何を判断基準としているのか、そのためにどんな知識を持っているのかを書いていこうと思う。