点尊降臨!

「ぼくが何者であるかは、お前が決めれ!」 なんか創る人をやってます。

20世紀生まれの君は21世紀という海に浮かぶクラゲを避けなくっちゃいけない(2)

無知の知と向き合う勇気「逃げちゃダメだ 逃げちゃダメだ ・・・」(『エヴァンゲリオン碇シンジ の言葉)という姿勢
 
 
恐れと好奇心は紙一重だ。恐れから差別が生まれ、恐れは無知の海を漂う原因になる。けれど好奇心は知識を得るきっかけになり、それは友好を生む原動力になる。
 
 
過去の経験やそして大学で文化人類学のレポートを書いた経験などから、差別を生む原因の中で「無知」が占める要素が意外に大きいことに気がついた。無知は相手や事象への恐れを生み、それは差別を作る。例えば、広島と長崎に落ちた原爆による被爆は、その当時差別を産んだ。それは放射線被爆や被曝の影響がよくわからなかったからだ。今でも、広島や長崎に偏見を持っているひとは少なからずいるかもしれない。少なくともぼくの周囲にはいないけれど。
 
 
ぼくは差別したくない。これは願望だ。実際はどうだろう? ぼくの中には厳然として「差別心」がある。無知からくるものだったり、コンプレックスからだったり「差別心」が湧いてくる原因を持っている。しかし、そんな感情や思いに気がつければ、「差別をしない」ことを自分の意思で選ぶことができる。だからぼくは「差別をしない」ことを選ぶ。そして「差別をしない」ためにも、「差別心」から脱出するためにも無知との格闘が必要だなと考えている。だから他人の投稿を鵜呑みにするのを止めた。
 
 
ぼくは自分とかかわりがある人を基本信じている。それはその人の意見を信じるというよりも、その人の本質的な部分を信じようとしている。だから意見が異なってもあまり気にしないのだ。それから自分の考えを表明するけれど、ぼくの考えや意見への同意を強制しようとは思わない。なぜなら対話を通じて、様々な問題点や新しい発見や改善策が導かれることを経験上知っているからだ。だから、これを読んでも鵜呑みにしたり、同意する必要はない。
 
 
対話をするためには争点への解像度をお互いに高めている必要があると思う。しかし、ぼくは人間には限界があることも知っている。だから全てのことを高解像度で観察し検証することは無理だ。それでも、自分が気になる問題があるなら、そこへ真摯に向き合うことは必要だと思う。その際にはやはり高解像で、広範囲を見なければいけない。そして広範囲を見るためには「ものを調べる技術」が必要だ。しかし、日本では残念なことに「ものを調べる技術」を教えていないから、皆独学だ。
 
 
物事への解像度を高めるためには知識が必要で、知識を得るには学ばなければならない。そして多角的に物事を見る意識もいる。でも、人間は残念なことに一度信用してしまうと「鵜呑み」に走る。よくよく調べれば根拠もくそもない、調査すらされていない情報が流れてきても、考えずに信じてしまう。
 
 
解像度と真摯さはつながっているなと最近思うようになった。良い加減な情報で危険を煽り、良い加減な情報で安全を煽る。どちらも低解像度で真摯さがない。得てしてそういう情報で使われる言葉は、ものすごく「軽い」。「軽い」言葉は耳触りが良いのかもしれない。でも、ぼくにはそこに「真摯さ」があるとは全く思えない。真摯さが足りないというころは、そもそもその情報の信憑性が低いということでもある。そしてその情報発信者へ疑問を呈すると、まともに答えてもらえない。そもそも信憑性の低い情報や、根拠もないものを拡散しているから説明する言葉がないのだろう。
 
 
説明する言葉がなければ、相手を拒絶する反応しかできない。それは自分の「無知の知」から逃げる行為だ。謝った情報を発信した際、その反論に対して拒絶反応を示すのは、多くの支持者を持つ人によく見られる。その人は名声という毒に犯され、「無知の知」と向き合う勇気をどこかに忘れている。彼らはチヤホヤされることが、自分の日常と化しているから、チヤホヤされて当然だと信じている。(ちなみのこの「拒絶反応」はその人間やその集団がカルト化する可能性をはらんでいることを示すものだ。)
 
 
自分の「無知」と向き合うには勇気がいる。恐れを抱いていては「無知」のままだ。それじゃ、やっぱり差別をしてしまう人間になってしまう。それはやはり嫌だ。ぼくは誰かを支配したいとも思わないし、支配されたいとも思わない。だからこそ「無知の知」と向き合う勇気を自分に欲するし、その勇気を持ち続けたいと考えている。
 
 
ものを調べる技術のおおまかなことは以前ブログに書いた。
(『誰でも発信できるからこそ必要な「ものの調べ方」』http://guiltygarson.hatenablog.com/entry/20140920/1411217210)これは入り口の扉の前に立ったのと同じ段階でしかなく、扉をノックすらしてないくらいの内容だけれど。自分のことや自分の周囲を守りたいなら、これくらいの姿勢は最低限あっても良いのではないかと、個人的には思う。
※今後のものの調べ方のところはもっと突き詰めていきたいと考えている。