点尊降臨!

「ぼくが何者であるかは、お前が決めれ!」 なんか創る人をやってます。

20世紀生まれの君は21世紀という海に浮かぶクラゲを避けなくっちゃいけない(3)

会議室では現場の実態はわからない。現場に行き、実際に作業している人に尋ねないと実態なんてわからない。
 
 
外からさらっと眺めてゴミ箱だなと思うとゴミを放り投げる人もいれば、本当にゴミ箱なのか確認しに行こうとする人もいる。事情があってゴミ箱かもしれないものに近づけない人は、おおまかに次の反応のどちらかに分類される。
外からさらっと眺めてゴミ箱かゴミ箱でないのか直接確認はしていないにもかかわらず、自分の印象をあたかも正しいと主張する人に賛同する。ゴミ箱かどうか確認しに行った人の見解や、調査結果をもとにした推測に賛同する。
 
 
ぼくはゴミ箱かどうか確認しに行った人の話を重視することにしている。理由は冒頭の文の通り。この考えは日産の会長カルロス・ゴーン氏の丸パクリだったりする。彼は日産の社長になった際に工場の社員を含め現場の人たち200名ほどに取材を行ったと、彼の伝記漫画で読んだ。カルロス・ゴーンはミュランタイヤにて世界各地の工場を渡り歩き、各工場の問題点を改善し収益改善の実績を持っている。だからこそ彼は現場の中に問題点を解決する糸口があることを知っている人なのだろう。
 
物事を調べる際にぼくが注意しているのは、Aという課題に対して賛成と反対の意見を調べることだ。そして現場の声が聞けるなら聞くことを行う。現場の声を聴くというのは、common bar SINGLESの運営時代にも実は意識して行っていた(ただし、それが上手くいっていたかは反省する点が多々有る)。現場の声を直接拾えないなら、現場の声を含め検証した資料を重視する。理由は現場の人だからこそ知っていることがあるから。それを無視して、根拠もなく「あれはこうだ!」「これは彼とあれの癒着があるから、こうだ!」という人の意見は信用できないと考えている。時系列や事実を無視して、相関関係と因果関係をごちゃ混ぜにして述べる人の主張は信用できない。なぜならそこには「真摯さ」を一切感じないからだ。また物事の原理原則を無視した煽り記事も信用できない。と言っても毎回白黒と二元論で判別するのではなく、物事の信用度はグラデーションと同じだと考えている。つまり、グレーゾーンがあるという考え方だ。
 
 
人間の性格や考えが全て論理で説明できないのと同じで、物事には「ここまでわかっている」けれど「ここからそれ以降はわからない」ということは多い。そのため「現時点での結論」はあるけど、それを覆す事実や理論には柔軟に対応しようと考えている。
 
 
これはレポートの書き方にも書いたけれど資料を読む際に注意したいことは「事実」と「推測」「仮説」をわけることだ。世の中には「推測」や「仮説」に基づいて「推測」を述べる人たちがいる。推測や主張をもとにブログでは「効果があるかわからない」と言いながら、別の場所では「効果がある」という意味のことを述べる人もいる。
基本的に推測だけで主張する内容は話半分だ。内容は信用されるに値しない。それでも人間は自分の主張に合うものだと、無条件に受け入れてしまう。ぼくにもそういう格闘はある。これは自分自身との戦いだと考えている。
推測はあくまでも推測だし、仮説は証明されるまではずっと仮説だ。事実は時に嘘として覆るかもしれない。それでも、ぼくは事実を重視する。
 
 
では事実かどうかを考える時、どういった視点で調べるのか? まず、ぼくは基本的に専門家が書いたものを重視する。実際にその現場に携わった人、携わってきた人が書いた書物を重視する。いい加減なブログの記事を読むよりも、専門家が書いた本を読むほうが正しい知識を得ることができるからだ。次にジャーナリストの記事や本である。ただし、ジャーナリストの記事を読む際には注意点がある。ジャーナリストの記事には偏向が入っている可能性がある。そのため、その記者の書いている内容を読み解く際に〔真摯さの有無〕〔相関関係と因果関係の区別がついているか〕などを見なければいけない。何を読むにしても、その記事内容が論理的で破綻がないかのチェックは必要だ。そのためには複数の本を読む必要がある。なぜなら人間はどうしても偏ってしまうからだ。常にバランスをとるというのは難しい。それに多方面からの検証を行うことで、何が事実で何が嘘なのか、何がわかっていないのかや今後どんなことが起こると推測されるのかがわかる。
 
 
この文章を読む人は文章を読むことに慣れている人だろう。それでも注意してほしい。「単語に惑わされない」ということを。
文章を「森」とするなら、文は「木」でそれを構成する単語は「葉」になる。葉だけを見ればどんな木かわかるが、その木がどんな形をしているかは木全体を見なければわからない。そしてどんな木が生えているか一本一本チェックしなければ、森の植生はわらない。一本の木だけではどんな森なのか決めつけることができない。だから木と木の相関関係と因果関係を理解しつつ読まなければどんな森かはわからない。文章を読むということは単語と単語、文と文の総関係と因果関係を読むということだ。この点に注意すれば、あなたが読む文章が論理的なのかどうか、または書き手が主題に「真摯」に向き合っているのかがわかるだろう。
 
 
ただ、専門家が書いた記事はある程度事前の知識や視点が必要だったりする。そうなると別途勉強が必要になる。
ぼくはこの21世紀は勉強の世紀だと考えているので、勉強し続けないと騙されると考えている。貧乏暇なしではなく、21世紀に生きる人は暇なしだなと考えている。
ぼくは元がオタク気質なので良いかもしれないが、オタク気質が低い人は大変な世の中だと思う。