点尊降臨!

「ぼくが何者であるかは、お前が決めれ!」 なんか創る人をやってます。

「理解」「感じる」(遊気舎『剥製の猿』)

6月1日に遊気舎という劇団のお芝居を観てきました。
タイトルは『剥製の猿』

遊気舎の本公演を観るのはこれが二度目。一度目は去年の秋に神戸アートビレッジセンターで公演された『イイトコ』
『イイトコ』はわかりやすいお芝居で初めて遊気舎を観る人も受け入れられ易い内容でした。
今回の『剥製の猿』はわかり易さよりも「感じる」ということを重視した作りでした。
話の筋がわかり易く、展開もわかり易いものは簡単に話の筋を理解できるので最終的には「面白い」「面白くない」で大方結論がでるでしょう。舞台でのお芝居をあまり観た事がない人にとって、演劇を見るのはテレビや映画などのエンターテインメントのドラマです。それはわかりやすく作られています。
舞台はセットの転換が容易ではありません。なので、お客さんのイマジネーションを借りるところは映像作品より多いです。セットを簡素にして俳優の表現力を利用して、お客さんにイメージしてもらうところが舞台演劇には少なからずあります。『剥製の猿』のように感じる部分を強く出すということはお客さんに対して、脳の活性化をお願いする内容になります。一体このお芝居が何を意味するのか? ってことを考えることになります。

人間ってのは自分の持っている言葉で相手が何を話しているのか解析して理解します。持っていない言葉について理解するのは脳を酷使します。たとえ同じ言語を使っていても世代や地域によって、また家庭環境などによってもそれぞれが持っている言葉は違うのです。
わかりやすいということは、私たちがそれぞれ所有している「言葉」の共通部分が多く使われているということです。
今回の『剥製の猿』はその私たちが共有している「言葉」をある程度削って、あえて説明不足にしているところがありました。

私たち人間はどうしても「理解」を重視して「感じる」という点をないがしろにしているところがあるとぼくは思っています。この「感じる」を重視したお芝居はお客さんを満足させることができるかどうかという点ではかなり難しい部類に入ると思います。

今回の『剥製の猿』、正直なところ遊気舎が初めての人にはちょっとしんどい作りでした。
遊気舎を知っているお客さんにとっては劇中で執拗に示唆されていた「生」と「死」、いや「生きる」という点について何かを感じる機会になるお芝居だと思います。

生きるということ、誰かとかかわるということ。痛みとどう向き合うかということ。


評価はお客さんがお芝居についてこれたかどうかで分かれると思いますが。


本日千秋楽です。
もしお時間がある方がいらっしゃれば、大阪の日本橋にあるインディペンデントシアター2ndにてやっていますので、是非「感じ」に行ってみてください。


わかるよりも「感じる」ことを。