放射線被曝による遺伝子への影響についての考察
もうハテナブログは使わないと思っていましたが、今回故あって利用することとなりました。今、noteでやっている「ぼくらワールド解体新書』はもともとハテナでほぼ文章のみで書こうと思っていたけど、文章を読むのがしんどいという友人がけっこういて、それじゃイラストが多い方がわかりやすいと考え…結果ハテナブログじゃなくnoteを選んだのでした。
1)リスクの捉え方
2)放射線の被爆が及ぼすリスクの考え方
3)放射線被爆が遺伝子へ及ぼす影響の考察
4)現在の見解(結論)
20世紀生まれの君は21世紀という海に浮かぶクラゲを避けなくっちゃいけない(3)
20世紀生まれの君は21世紀という海に浮かぶクラゲを避けなくっちゃいけない(2)
前回の記事とかぶるけど、自分のものの見方の一片を書いてみた
20世紀生まれの君は21世紀という海に浮かぶクラゲを避けなくっちゃいけない(1)
人間の脳はサボるために知力を働かせるとぼくは思っている。考えすぎると頭が痛くなるからなのか、なるべく考えたくないのだ。それはこれを書くぼく自身も同じで、この考えたくない思考から逃れられない運命を背負っている。それが故に、ぼくはそこから逃げまいとしようと努力はしているつもりだ。だいたいが失敗しているのだが。
気がつけばノストラダムスの大予言は大外れし、21世紀になっている。そして21世紀になってから14年過ぎた。この14年間で何が変わったかというと、私たちひとりひとりが受け取る情報量が変わった。20世紀は新聞やテレビ、ラジオが主な情報源だった。しかし、今ではそこにインターネットが加わっている。インターネットでも大手マスコミが流すニュースのみならずフリーランスの記事や個人ブログ、Twitter、Facebook、2chなど様々な情報媒体がある。IT業界で話題のビッグデータはそんな情報化時代を表した言葉だ。そしてこのビッグデータの時代は、過去にはわからなかった大手メディアの報道の質の低さが明らかにもなる時代となっている。
このように、当然すべての情報が正しいわけではなく、大手マスコミを含めて情報の精度は玉石混交、嘘やデタラメもあれば正しい情報もある。広大な情報の海の中で、私たちは泳ぎながら、嘘やデタラメというクラゲを避けなければならなくなったのだ。
クラゲに刺されると痛いのと同じで、嘘やデタラメは基本痛々しい。それを発信する側も痛々しいし、それにツッコミを入れるのも嘘やデタラメを発信する人と不毛な対立が発生するので、ツッコミを入れた人間に痛みが走る。だから関わらない、ツッコミを入れないということが常態化している。無用な対立は避けたいのは誰でも思うことだろう。真偽不明なことを調べるのが面倒だから、態度を保留しているのかもしれない。たとえそれが明らかに間違いだと知っていたとしても、対話や議論に慣れていない日本人は、そんな相手にツッコミを入れると喧嘩にしかならないことを肌で知っているから、誰もツッコミを入れない。嘘やデタラメを吐くのは簡単ですぐに広まるけど、正しいことは大概地味だからなかなか広がらないんだ。その間違いを証明するのは骨が折れることもあって、対費用効果は低い。
以前このブログではものの調べ方について、簡単に書いた(『誰でも発信できるからこそ必要な「ものの調べ方」)。最低限これくらいの知識とある程度の論理力があれば、そうそう騙されないはずだ。だけど、現実には高学歴の人でも騙されている。いや、騙されているというより、勉強の仕方を忘れているのか、それとも大学時代にレポートは誰かのを写して提出していたのかもしれない。ものを調べる技術が低すぎる人は、残念ながら学歴にかかわらず多いのだ。それは義務教育でものの調べ方を教えていないからだ。義務教育で学ぶ知識を使って調べれば、十分に嘘は嘘、デタラメはデタラメとある程度見破れるもんだ。日本の学校教育の欠点は知識を伝えることに偏重しているため、知識の使い方を教えていない。ものを調べるには文献を読み解けるだけの基礎知識が必要だ。それは義務教育の範囲で完全ではないにしても、ある程度は教えている。知識を使って調べた内容を検査し検討する技術を身につけさせることが、今後の学校教育では重要だとぼくは考えている。なんとなく調べ方をわかっている教員は多いかもしれないが、調べる技術を持っている教員は少ないのではないか? 調べる技術の向上を目指すなら、やはり教員へ調べる技術を身につけてもらう必要がある。この情報が溢れかえって漏れ出している世界を泳ぎきるために、当然教師だけでなく私たちにも、調べる技術や調べるための基礎知識は必要だ。
情報の真偽を自分で確認しなくちゃいけない社会になっている。ぼくは誰が発信者であろうと、基本その情報を鵜呑みにはしない。わからないことは「わからない」と態度を保留することにしている。人間は自分の信じたいことを信じる方が楽だから、自分の信じたいことを証明してくれそうな情報を支持しやすい。証明されていない単なる仮説であっても、自分に都合よい情報なら人は鵜呑みにしやすい。だから自分の心情に即した情報に惑わされてしまう、自分の頭の悪さを頭に入れておかなくちゃいけない。間違った時は謝らなくちゃいけない。それを避けたいなら、やっぱり勉強をしつづけないといけないと思う。嘘やデタラメの発信者とならないためにも、ぼくらは永遠に勉強をし続けなければならない。
今後いくつかの記事で、ものを調べるために最低限必要な視点や知識、ものの調べ方について書いていこうと思う。そのためここでは嘘やデタラメの具体例は出していない。次回はこの『20世紀生まれの君は21世紀という海に浮かぶクラゲを避けなくっちゃいけない』の基本姿勢について書こうと考えている。
「空気読む」というディスコミュニケーション
「空気を読めない」とよく言われる。しかし、そんなに空気を読んでどうするの? って思うのだ。
1年ほど前のことだ。その日ぼくはとある女性とデートしていた。その女性とは気が合うというわけではなかったが、とりあえずの精神で誘ってみたのだ。やはり元々気が合わないということもあって、内容は散々だったしそれからその人との付き合いはしたくないなと思うに至った。人間として付き合うのが無理と判断したのだ。その一番の理由が「対話」ができないだった。
その女性からぼくは執拗に「空気読めないな」と指摘された。はあ、まあ読む気がないですが何か? と思いながら話しを聞いていた。伝えたいことを察してほしいというハイコンテクストを他人に求めるのは、傲慢ではないかとぼくは考えているので、「空気読めない」という概念自体がぼくには希薄なのだ。当の本人はぼくに何を察してほしかったのかはわからない。それを尋ねても答えないのだから、コミュニケーションなんて一切成り立たない。
「空気読む」こと至上主義の人にとって、このエピソードは痛々しいだろう。痛々しいと言われればそれまでだ。しかし、このエピソードには日本人が「対話」慣れしていないという事実が含まれている。
そもそも日本は開国する江戸末期までほぼ日本国内、いや藩の中だけのコミュニティで一生が成り立っていた。まあ、人の移動が一切なかったわけではないけれど、同じ言語、同じ文化の中で過ごして来た。開国後、明治、大正、昭和を経て様々な文化、つまり異なる言語と文化を持つ外国人が入って来たのだ。対外戦争の経験として自国に攻め込まれたのは、蒙古襲来、薩英戦争、第二次世界大戦くらいだろう。大陸のように国同士が陸続きでないため、異文化との摩擦はそれほど多くなかった。
大陸では異文化同士の摩擦が歴史的に頻発していたため、対話をして相手が敵なのか味方なのかの区別や共通項を見つけ和解、協力することが求められる習慣ができた。しかし日本ではほぼそんな必要はこれまで感じることはなかった。
なぜなら、日本は異文化との摩擦をほとんど経験していないからだ。そのため日本は他国と比べると、言語に含まれる意味がほぼ似通っているハイコンテクストな社会となった。今のところその実情は変わっていない。
しかし今後は違う。ハイコンテクスト社会からローコンテクスト社会へ潮目が変わる時期になっている。外国のようなローコンテクスト社会になるかは別としても、これまでのようなハイコンテクストな社会ではいられない。すでにローコンテクスト化してきているわけだ。でも残念ながら、その事実に気がついている人は少ない。
ぼくがこの事実に気がついたのはTwitterでとあるやり取りを外側から観察していた時だった。Twitterという140文字同士のやり取りで議論や対話のやりとりがすれ違う様を見てきた。その原因は話者同士の主題にたいする「前提」が相違していたのだ。どちらも自分の前提を元にしてやりとりしているので、話しが噛み合ないのだ。これは普段の会話でも起こることだが、主題に対する「前提」が噛み合ないならその対話はすべてすれ違いが続く不毛で利益の無いものになる。前提が相違すると質問も的を得ないし、回答も的を得ないものになる。まずはお互いの前提をすり合わせることなんだけど、対話方法を習っていないのだからなかなかうまくはできない。知識人であっても、対話技術が低い人は多いとぼくは見ている。
対話には相手の考えを聞き出す技術と忍耐が必要だけれど、ハイコンテクストに慣れるとそんな技術も忍耐もない。だから「空気読めない」という言葉が使われるのだろう。
現在の日本はなんだかんだ非常に豊だと思う。様々な思想や音楽や文化が入ってきていて、人の趣味が多様化し人の思想も多様化している。それに外国人で日本に住む人も増えている。つまりすでにお互いのコンテクストの相違点は昔に比べると増えているわけだし、全く違うコンテクストを持っている人たちとの遭遇率も上がっているわけだ。
ハイコンテクストであれば難しいこと考えなくても良いし、口を開いてわざわざ伝えなくても良かった。でも今はどんどんローコンテクスト化していっているのだから、お互いの違いと共通点を確認する技術と忍耐が必要とされてきているとぼくは考えている。つまり時代の趨勢は「空気読め」という時代から変わろうとしているのだ。
さて、冒頭の女性であるが、とあるお好み焼きへ行った際、彼女は自己満足のため他人の分を含め、お好み焼きの写真を全て撮るまで食べることを周囲に禁じたことがあったらしい。しかも何度も取り直しをしたらしく、中にはお好み焼きの底が焦げた人もいたらしい。それから周囲の人は彼女との外食を面倒だと思うようになった。たぶん彼女とその時共にいた人たちでは「食事」に対する文化やコンテクストが違ったのだろう。彼女が空気を読めていればこの文化的な衝突は起こらなかったのだろうし、または周囲が対話で説得をしていればまた違った結果になったかもしれない。これは空気読めないやつの空気に仕方なく合わせてあげようという空気を、周囲が察し同意したのだろう。
空気を読まなきゃいけない文化では「言わなくてもわかるだろう」が蔓延する。それって結局コミュニケーションをサボってるのと同じなんだよ。そして今後は外国人の流入、文化の多様化によって価値観の違うひとが今よりもたくさん増えると思う。その時に「空気読めない」とひとことで片付けてコミュニケーションをサボるよりも、「対話」によって相互理解を深めコミュニケーションを試みた方が平和になると思う。「対話」の技術が今後はどんどん求められるよ。他人に「空気読む」ことばかり要求するあなたにはその空気を読む気ある?
敬語も結局諸行無常
普段使う言葉から諸行無常を悟る経験がある人はどれくらいいるだろう。
普段のぼくの仕事はサービス業。
お客様へ敬語を使わねばならない仕事だ。
しかし、今働いている現場ではどうやら誤った敬語が飛び交っている。それも残念なことに、平も上司もともどもに間違った敬語を連発している。生半可な知識だけあるため、すごくすごく気になる。
そもそも敬語とはなんぞや? ぼくは思った。たしかに今の仕事を始めてから、なんとなく習ってきたし使っているつもりだったのだが、実際のところどうなのだろうと今の惨状を眺めて思ったのだ。
そういえば国語の授業で敬語の授業を少し受けた記憶はあるが、実践して使うこと等ほぼ皆無であったがため、全く身に付かずに大人になってしまった。そして成人式からははや17年ほど過ぎてる(早生まれのため成人式の式は19歳だった)。そんなこじらせにこじらせてしまった人生で、今この敬語について「やっぱり必要かな」と思い始めたのだ。まあ、ここまで考えて、まともな敬語を使っている同年代や年上、年下はすっごく少ないので、それほど問題でもないのかもしれないが・・・・・・。
ということで、敬語について書かれている本を買って読んでみた。当然、それは自己研鑽を目指してでの行動である。ぼくは意識高い系人間なのだ!
だから、まずはこの本を買ってみた。
『失礼な敬語 誤用例から学ぶ、正しい使い方』 野口 恵子
読みづらい。というか、何を書いているのかがわからない。誤用と正しい使い方の区別がつきにくい構成となってる。いや、それダメってわかるけど、じゃあどれがどう正しいのかわかりづらいところがいくつかある。そもそもターゲットがぼくのような敬語を中途半端にかじった人間ではなく、敬語や日本語に詳しい人向けなのだろう。
意識高い系を冒頭で自負したものの、まだまだそれには遠いようだ。
次に買ったのはこれ!
マンガ世代のぼくでも読みやすい。マンガと文章で優しく書かれている。
この本は意識高い系初心者、ビギナー、または意識低い系でもとりあえず読める! ぼくのような中途半端意識高い系にはもってこいの本だった。
この2冊を読んで、自分自身に感じたことは「尊敬語」「謙譲語」「丁寧語」よくよく考えると意味はなんとなく憶えているのだけれど、実際には意識して使っていないということだった。
そして他の敬語に関する本をちらっと立ち読みすると書いてある本によって若干敬語に関する解釈が違う。
「〜させていただきます」
これよく職場で聞くんだけど。お客様に対して「〜させていただきます」というのは実は失礼なんだよね。でもとある敬語の用例をつらねた本ではこれOKになっていた(ので買わなかった)。
そもそも言葉ってどんどん変化するものだし、単語の意味だってどんどん変わるもんだ。
「役不足」=もっと良い役職につく実力がありながら、下っ端のままのこと
「役者不足」=実力が足りないこと
を混同して本来「役者不足」と言うところを「役不足」と台詞をつけてる作品がほとんどだし、日常でもそう。この勢いだと誤用がそのまま定着していくんだろうなって思ってる。
(誤用)
「〜の形になります」
「よろしかったでしょうか?」
「〜いただき、ありがとうございます」
(正用)
「〜でございます」「〜になります」
「よろしいでしょうか?」
「〜くださり、ありがとうございます」
「いただく」「くださる」の違いは難しくて、どちらでも良い場合もあるんだけど、「くださる」が明らかに正しい場合でも「いただく」を使っている人多い。
「くださる」の主語はお客さんなど、自分と相対している他人が主語になる。
「いただく」は自分が主語になる。
この誤用も大多数に受け入れられているみたいだから、定着するんじゃないかなって思ってる。
そこまで考えると、いったい敬語ってなんだろう? 言葉ってなんだろうとぼくは迷うのだ。
この迷いはとくに小説を書く際、登場人物に台詞をつける際に生じている。
今現在多くの人間が誤用しているものを使うのか? それともなるべく正しいものを使うのか?
それとも登場人物によって使い分けるのか?
そもそも自分が認識している敬語が正しいのか、正しくあり続けるのか?
諸行無常の響きは祇園精舎の鐘からだけではなく、敬語からも普段使っている言葉の響きにも含まれているのだろう。