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点尊降臨!

「ぼくが何者であるかは、お前が決めれ!」 なんか創る人をやってます。

放射線被曝による遺伝子への影響についての考察

もうハテナブログは使わないと思っていましたが、今回故あって利用することとなりました。今、noteでやっている「ぼくらワールド解体新書』はもともとハテナでほぼ文章のみで書こうと思っていたけど、文章を読むのがしんどいという友人がけっこういて、それじゃイラストが多い方がわかりやすいと考え…結果ハテナブログじゃなくnoteを選んだのでした。

 
さて、今回の記事は放射線被曝の遺伝子への影響について書きます。なので、事前に基礎となる知識を身につけてから読まないと誤解したり、訳がわからなかったりします。まずは『ぼくらワールド解体新書』を1から11まで順番に読んでから下記の記事をお読みください。
 
 
 
物事の捉え方視点の話を簡単に載せ、放射線被曝の遺伝子への影響を考える上で土台となる知識を大体書いてます。また、この後の記事内容は『ぼくらワールド解体新書』の内容を土台として積み上げたものです。そのため、ぼくの思考の流れ、視点を理解してもらう方が下記の記事の理解がある程度楽になると思います。
 
まず最初にぼくの思考を整理します。
1)リスクの捉え方
2)放射線被爆リスクの考え方
 
上記2点を整理した上で、
3)放射線被爆が遺伝子へ及ぼす影響の考察
4)現在の見解(結論)
 
 
今回は『ぼくらワールド解体新書』とは異なり、初心者向けから初級〜中級者向けの内容になるかと思います。文面が硬くなり読みにくい点について、ご容赦願います。
 

1)リスクの捉え方

リスクの捉え方については、おおまかに各要素を網羅した全体的なリスクとして捉えています。リスクとして個別要因が大きくなると、全体的なリスクがあがるという考え方です。当然自動車事故に遭う確率や飛行機事故に遭う確率、道を歩いていて上から物が落ちてきて怪我や死に至る確率を含めると複雑化するのですけど、この記事ではザックリとそういったリスクを除いて、健康面へのリスクで考えます。
つまり健康面での全体的なリスクをあげる要因のひとつとして、放射線被ばくがあるという考え方です。
 

2)放射線の被爆が及ぼすリスクの考え方

まず人体へ影響を及ぼす放射線の線量はSv(シーベルト)という単位で測ります。
1Sv=1000mSv(ミリシーベルト
1mSv=1000μSv(マイクロシーベルト
これは自然放射線であれ、人間が原発や原爆、その他医療で使う放射線であれ同じ単位で測ります。
この点で人口か天然かは関係ありません。
立ち上がったクマ(生物)の背の高さと同じように立ち上がったクマの銅像の背の高さはm(メートル)で測ります。
それと同じ。
人体への影響としては基本的にmSvを基準に考えて良いです。
 
放射線被爆のリスクの捉え方は、自然放射線であれ人口的に生まれた放射性同位体から発する放射線であれSvが高いほど人体への影響は大きくなります。
(そのため特に自然放射線量が高くなる宇宙では、放射線防護が必須になっています)
原発を含む原子力関係施設の放射性物質漏洩で問題となるのは、被爆量が不用意に増える点です。
状況にもよりますがこの2点の点で不用意に被爆量が増えます。
 
1.外に漏れた放射性物質の影響で、空間線量が上昇し体の外から受ける放射線量が増える。
2.土壌に放射性物質が付着することで、農作物が放射性物質を取り込み汚染する。
 
また、その漏れた物質とその量からどれくらいの放射線が発生するかがリスク問題に大きく関わってきます。
原子力施設の事故によって生まれた放射性物質からの放射線が高ければ高いほど、危険は高まります。
当然量が少なければ健康上気にしなくて良い場合もあります。つまりどんな放射性物質が漏れ、その量はどれくらいか、どれくらいで半減し無くなっていくのかが放射性物質が漏れた際、リスクを考える上で必須要素となります。
 
 
で示したように、その量によって人体への影響度合いは変わります。
放射線は単純に線(実際には波になっていますけど)で、特にガンマ線中性子線は人体を通過します。放射線被爆の解説は『放射線被爆の理科・社会』や『放射線生物学』などに詳しく載っています。ザックリ述べると、人体に入った放射線が細胞内のDNAを破壊します。
細胞やそのDNAを破壊するものとして、放射線のみならず、アルコールやタバコ、日々食べている野菜(無農薬も当然含む)も私たちの体を壊す要素(アルカロイド)を含んでいます。
 
総合的なリスクとして、ザックリと量で見る視点が必要です。その上で個別要因を考えリスクリダクション(危険を減らす)必要があります。
放射性物質漏洩事故での影響で考えるなら、体の外からの被爆量と体内へ摂取した被爆量をトータルでまず捉え、その上で内部被爆が及ぼす影響を考えます。
例えば放射性ヨウ素は喉のあたりにある甲状腺にたまりやすく、放射性セシウムは筋肉、放射性ストロンチウムは骨などにたまりやすいです。
ヨウ素について半減期は 日と短く、その間飲料水などに溶け込んだヨウ素をさければ内部被爆を抑えることができます。セシウムストロンチウムにしても同様で汚染された食物を避ければ回避できます。
日本の食文化では魚介類の摂取が多いので、もともと甲状腺ヨウ素が多く、放射性ヨウ素の影響を受けにくいなど生理学的な反応があり、一概にこうだ!と決めつけることは簡単にはできません。
放射性セシウムや放射性ストロンチウムにしても、過去の大気圏内核実験の影響で拡散されています。少量摂取したところで、健康への害はありません。
なぜなら、私たちは日頃から放射性物質を含んだ元素を必須栄養素として摂取しているからです。例えば、カリウムセレンです。どちらにも放射性同位体が少量含まれています。
放射性セシウムストロンチウムを含め、人体に悪影響を及ぼす量を摂取しないなら、気にする必要がありません。
つまり、すべては量をどれくらい摂取するかが問題となります。私たちの体は日々摂取する食物から得る材料を使って、体を修復しています。この修復できる量を超えるほどダメージを受けると危険であることを理解しましょう。
 
(※まずここまで読んで、まだ『ぼくらワールド解体新書 』を1〜11まで読んでいなければ、必ず順番通り読んでだ上で下記内容へ進んでください。)
 
 

3)放射線被爆が遺伝子へ及ぼす影響の考察

では次に放射線被曝の遺伝子への影響について、ぼくが理解していることを述べていきます。基となる資料は
放射線必須データ32 被ばく影響の根拠』田中司朗、角山雄一、中島裕夫、坂東昌子 創元社 2016
ここから幾つか内容を拾い要約したものを載せます。グラフなどは『放射線必須データ32』の本文記載のものを各自参照してください。
ぼく自身の意見や理解は【ぼくの理解】で分けて載せています。
 
ここからはSv以外にGy(グレイ)という単位がでてきます。Gyは放射線のエネルギーがどれだけ物質に吸収されたかを測る単位です。だいたい1Gy=1Svとなります。(条件によっては1Gy=800mSvなどに変わるけど、ザックリでいきます。)
詳しい内容につきましては『放射線必須データ32 被ばく影響の根拠』を購入または図書館で借りるなどして確認ください。
 
◆データ1:黄色ショウジョウバエへのX線照射実験(1926年)
最初に、中学か高校かで習う黄色ショウジョウバエX線を25Gy照射し、遺伝子に突然変異が発生、25Gy被曝した孫の世代に雄が生まれなくなることがわかりました。
黄色ショウジョウバエと人間などの哺乳類では単純比較は難しいものの、放射線の線量によっては遺伝子が突然変異をおこすことを証明したものです。
 
 
◆データ2:米国オークリッジ研究所のラッセルらによる『メガマウスプロジェクト』「低線量率と高線量率での突然変異発生率」
メガマウスプロジェクト』700万匹にも及ぶマウスをつかった被曝実験。
1950年代に始まり1960年ごろに結果が論文で発表され。1982年にそれまでの結果をまとめて発表しています。
 
「低線量率と高線量率での突然変異発生率」
マウスの精子をつくる精原細胞へX線ガンマ線を照射し、あらかじめ指標とした7つの遺伝子座にどれくらいの突然変異が発生するかを研究したものです。
この実験ではトータルで同じ放射線量を浴びても、長期間で浴びるのと短期間で浴びるのとでは影響の度合いが変わることを発見しました。
短期間で高線量の放射線を浴びる方が低線量で長期間浴びるよりも影響が大きくなります。
 
【ぼくの理解】
この実験結果から、人体の生理学的反応によって修復が行われるため、長期的に低線量を被曝する方が遺伝子が突然変異する割合が下がる。
 
 
◆データ8:放射線によって誘発される奇形と流産の発生頻度
マウスをを使って実験された研究です。妊娠時期によって放射線に対する感受性がどのように変わるかを調べたもの。発情期の雌の繁殖と発育が良好な実験用マウスを用いて、雄と交配させ受精後6時間(着床前の受精卵)もしくは9.5日のマウス(器官形成期の最中)にそれぞれX線を照射。受精後19日(出産前)に胎内を観察し死亡と奇形の発生頻度を調べています。
 
 
【受精後6時間、着床前受精卵にX線を照射した結果】
高い頻度で胚死亡が発生。約500mGy(=500mSV相当)で受精卵の半分が死ぬ結果となりました。
受精卵が死ぬと当然ですが、子は生まれてはきません。
着床し胎児となり、無事に生まれた後も奇形は発生が顕著に増えることはありませんでした。
着床前の卵子への被ばく→無事に着床した場合、着床後に器官形成に入るため奇形の発生頻度が有意差を持って上昇しないと考えられます。
 
【受精後9.5日ごのマウスにX線を照射した結果】
1Gy(=1Sv相当)までは奇形発生:無
その後線量が増えるごとに奇形発生率が格段に上がる。1.5Gyで7割ほどの奇形が見られています。
また1.5Gy以上被ばくしたあたりから、死亡頻度も増加。2Gyを超えると、死亡頻度が急増した結果となっています。
 
【人間にこの実験結果を当てはめると】
受精後0〜8日(着床前)の被ばくでは胎児への影響の心配はないと考えられます。ただし、受精後9〜60日の間(器官形成期)では奇形発生の危険性が考えられます。ただし、ICRP1990勧告では被ばく線量が閾値と考えられる100mGy以下であればそれを中絶の理由としてはならないとしています。
 
【ぼくの理解】
卵子精子に記録されている遺伝情報に異常があり、なおかつそれが引き継がれれば遺伝的影響が子孫に残る可能性が考えられます。受精卵が着床するまでの0〜8日間の間に1Gyを超える被ばくを受けるケースは、幸いに今の所ありません。また東京電力福島第一原子力発電所の事故でも発生していません。
この実験からも、低線量被ばくでは子孫への影響は考えられないと理解しています。
 
 
◆データ9:DNA損傷を感知する細胞内メカニズム
放射線によりDNAが切断され細胞の部位が、細胞に備わっている仕組みによって損傷を探知し、DNAを修復することがわかった実験。実験には人(ヒト)の培養細胞を使っている。
 
放射線がDNAに当たると、DNAの2本鎖を2本とも切断します。DNAには修復機能があり、たとえ2本鎖が2本とも切断されても、修復することができます。ただし、2本とも切れると修復がうまくいかないことがあります。
DNAの2本鎖が切れる要因は放射線以外にもあり、ある種の薬剤や毒素(つまりアルカロイドの中に2本とも切断するものがある)、酸化ストレス、正常な細胞活動であるDNA複製によっても発生します。
 
DNAが正常に修復されない=細胞のガン化や他の病気の原因となるわけではありません。免疫が働き異常がある細胞を排除、正常細胞へと入れ替えていきます。
 
 
 
◆データ21:広島・長崎で原爆被ばくした胎児とその母の染色体異常
胎児は成人に比べて非常に放射線感受性が高いとされている。広島・長崎で原爆被爆した胎児とその母親の被爆線量と末梢リンパ球の染色体異常発生率との関係を調べた疫学調査
 
調査結果は母親の染色体異常は被爆線量に応じて増加しているが、胎内被爆児は高線量でも染色体異常率は増加していないことがわかった調査。
同じ研究グループによりマウスを用いた動物実験が行われている。この動物実験でも母親マウスにはリンパ球細胞に多数の転座型染色体異常が発見されたが、子マウスには異常がほとんど観察されなかった。しかし母マウスには見られなかった造血幹細胞の染色体異常が一部の子マウスに見られた。
 
【ぼくの理解】
このことから胎内被爆や被曝による低頻度のガン発生の可能性は否定できません。ただし胎内被ばくを受けたとしても、異常細胞を淘汰する胎内のシステムが働き、胎内被ばくがガン発生の決定的な要因になることは考えにくいです。
 
 
 
◆データ21:広島・長崎原爆被ばくの遺伝影響 ー遺伝子突然変異率ー』
原子爆弾によって1.56Gyの放射線を両親もしくは片親が被ばくした子供66人と両親とも被ばくしていない子供63人の、DNAの中のマイクロサテライトと呼ばれる部分の突然変異を検出。被ばくした親から引き継いだマイクロサテライトの変異率と被ばくしていない親から引き継いだマイクロサテライトでの変異率の差があるかを調べたもの。
調査結果は、変異率に差が無く、親の被ばくによる経世代的影響は見られなかった。
 
 

4)現在の見解(結論)

低線量被ばく、たとえば2μSv/hや年間被ばく量20mSv程度の被ばくを長年続けていても、遺伝的な影響が次世代にでる可能性は限りなく0に近いと結論となりました。つまり自然放射線に、原子力関連施設や核実験によって追加された放射性物質が放つ放射線が増えたとしても、低線量であればリスクは低いということです。そもそも8日間ていどで1Sv被ばくする環境が日常にはありません。
 
現在の福島県に関して言えば、心配するレベルではないので、普通です。そこに健康被害が起こるという人は全く勉強していない人か、本当は無関心で関心があるように装い他人と関わりたいだけなど、おそらくリスクを叫ぶのとは別に目的があると考えられます。
 
放射線被ばくの問題はDNAの2本鎖を2本とも切断することです。ただし、2本とも切断するのは放射線だけじゃなく、ストレス、タバコ、アルコールなど多岐にわたります。そういったリスク要因の中のひとつとして放射線があります。ストレスやタバコなどもDNAに突然変異を起こす原因になるわけです。
 
また変異を起こした細胞や死んだ細胞や体の免疫が働き排除します。そして不足した細胞を我々の体は日々の食事などから得る材料を使って新しく増やしているわけです。つまり修復しているわけです。
そのためトータルで高線量を被ばくするとしても、短期間か長期間かでその影響が変わってくるわけです。それを示したのが『データ2:米国オークリッジ研究所のラッセルらによる『メガマウスプロジェクト』「低線量率と高線量率での突然変異発生率」』と『データ8:放射線によって誘発される奇形と流産の発生頻度』なわけです。
当然、人間にもまるまるではないにしても、当てはまるわけです。
 
東京電力福島第一原子力発電所の事故から3年後には人がバタバタと死ぬ、5年後には死ぬとのたまう発信した人たちがいます。2016年の7月には東京は人が住めないと述べた本を出版した人だっています。今それが実現しているかっていうと、全く実現していないし、今後も彼らが述べた原因(2011年の東電福島原発事故)によって、東京で人が住めなくなることは起こらないでしょう。当然福島県にだって普通に住めますし、住んでいるわけです。
つまり、福島県で発生した東京電力福島第一原子力発電所の事故による放射性物質漏洩での追加被ばくでは、まず遺伝的影響が起こるとは考えられません。
 
中には人工放射性物質による追加被ばくで、数万年かけて遺伝的影響がみられるかもしれないとの意見がありますが、数万年単位となると放射線以外の要素が多くなり、人類に大きな変化があったとしてもそれが被ばく影響が起因となるかどうかはわからなくなると考えます。加えて、そこまで大きな線量の被ばくは現状では一般的なものではなく、特に現状の福島県の線量や、福島県産の農作物や海産物についても、遺伝的影響を与えるような量の放射性物質は検出されていません。
また放射性セシウム100bq/Kgを問題視する人がいますが、この基準は放射性セシウム100bq/Kgあるとストロンチウムはこの割合あるだろう・・・などとベータ線のみ発する放射性物質からの影響を考えて設定されています。国際的にも厳しい基準です。そもそも100bq/Kgの食品は流通していません。
放射性セシウム20bq/Kgが問題とおっしゃる人もいますが、その人はおそらくヨーロッパへはいけません。基準値を問題にするなら、基準値が日本より高い食品が流通している国には行けないと思うからです。
(※bq=1秒間に放射線を出す放射性物質の個数を表す単位)
 
これが現在のぼくの理解と見解です。
これに反対される方もいらっしゃると思いますが、その時は「分かり合えないことをわかりあう」しかないと考えております。
 
【追記】
タバコには放射性ラジウムや鉛、ポロニウムが含まれており、喫煙者は自らニコチンやタールなど毒性のあるアルカロイド放射性物質を摂取しています。喫煙によって遺伝子も破壊されます。タバコでガンが発生しやすくなるのは、遺伝子を破壊し細胞のガン化を促すからです。
ガンは遺伝子が壊れた細胞が細胞分裂を起こした場合にも起こります。(ウイルス性のものもあります)ガンリスクをあげるものはいくつもありますが、タバコの害は毎日1箱(20本)の喫煙で肺のDNAで平均150個の突然変異を起こします。(情報元:jiji.com「喫煙で遺伝子変異150個=肺がんリスク上昇、5千人分析」 http://www.jiji.com/jc/article?k=2016110400040&g=soc 2016年11月7日
元論文:「Mutational signatures associated with tobacco smoking in human cancer」
 
タバコをスパスパ吸っている方が、一桁μSv/hの被ばくよりも断然健康リスクが高いというのがぼくの意見です。喫煙者であっても、普通に長生きする人もいます。そこから考えたって、福島県が危険、福島県産品が危険とは一切言えません。福島県は大きな原発の事故はありましたが、幸運にも普通ですが結論となります。よって反原発を掲げ、福島県が危険、福島県産品が危険といったデタラメを流すのは、単なる差別にすぎないと考えます。
 
 
 
【主な参考文献】
放射線生物学オーム社 2011

20世紀生まれの君は21世紀という海に浮かぶクラゲを避けなくっちゃいけない(3)

会議室では現場の実態はわからない。現場に行き、実際に作業している人に尋ねないと実態なんてわからない。
 
 
外からさらっと眺めてゴミ箱だなと思うとゴミを放り投げる人もいれば、本当にゴミ箱なのか確認しに行こうとする人もいる。事情があってゴミ箱かもしれないものに近づけない人は、おおまかに次の反応のどちらかに分類される。
外からさらっと眺めてゴミ箱かゴミ箱でないのか直接確認はしていないにもかかわらず、自分の印象をあたかも正しいと主張する人に賛同する。ゴミ箱かどうか確認しに行った人の見解や、調査結果をもとにした推測に賛同する。
 
 
ぼくはゴミ箱かどうか確認しに行った人の話を重視することにしている。理由は冒頭の文の通り。この考えは日産の会長カルロス・ゴーン氏の丸パクリだったりする。彼は日産の社長になった際に工場の社員を含め現場の人たち200名ほどに取材を行ったと、彼の伝記漫画で読んだ。カルロス・ゴーンはミュランタイヤにて世界各地の工場を渡り歩き、各工場の問題点を改善し収益改善の実績を持っている。だからこそ彼は現場の中に問題点を解決する糸口があることを知っている人なのだろう。
 
物事を調べる際にぼくが注意しているのは、Aという課題に対して賛成と反対の意見を調べることだ。そして現場の声が聞けるなら聞くことを行う。現場の声を聴くというのは、common bar SINGLESの運営時代にも実は意識して行っていた(ただし、それが上手くいっていたかは反省する点が多々有る)。現場の声を直接拾えないなら、現場の声を含め検証した資料を重視する。理由は現場の人だからこそ知っていることがあるから。それを無視して、根拠もなく「あれはこうだ!」「これは彼とあれの癒着があるから、こうだ!」という人の意見は信用できないと考えている。時系列や事実を無視して、相関関係と因果関係をごちゃ混ぜにして述べる人の主張は信用できない。なぜならそこには「真摯さ」を一切感じないからだ。また物事の原理原則を無視した煽り記事も信用できない。と言っても毎回白黒と二元論で判別するのではなく、物事の信用度はグラデーションと同じだと考えている。つまり、グレーゾーンがあるという考え方だ。
 
 
人間の性格や考えが全て論理で説明できないのと同じで、物事には「ここまでわかっている」けれど「ここからそれ以降はわからない」ということは多い。そのため「現時点での結論」はあるけど、それを覆す事実や理論には柔軟に対応しようと考えている。
 
 
これはレポートの書き方にも書いたけれど資料を読む際に注意したいことは「事実」と「推測」「仮説」をわけることだ。世の中には「推測」や「仮説」に基づいて「推測」を述べる人たちがいる。推測や主張をもとにブログでは「効果があるかわからない」と言いながら、別の場所では「効果がある」という意味のことを述べる人もいる。
基本的に推測だけで主張する内容は話半分だ。内容は信用されるに値しない。それでも人間は自分の主張に合うものだと、無条件に受け入れてしまう。ぼくにもそういう格闘はある。これは自分自身との戦いだと考えている。
推測はあくまでも推測だし、仮説は証明されるまではずっと仮説だ。事実は時に嘘として覆るかもしれない。それでも、ぼくは事実を重視する。
 
 
では事実かどうかを考える時、どういった視点で調べるのか? まず、ぼくは基本的に専門家が書いたものを重視する。実際にその現場に携わった人、携わってきた人が書いた書物を重視する。いい加減なブログの記事を読むよりも、専門家が書いた本を読むほうが正しい知識を得ることができるからだ。次にジャーナリストの記事や本である。ただし、ジャーナリストの記事を読む際には注意点がある。ジャーナリストの記事には偏向が入っている可能性がある。そのため、その記者の書いている内容を読み解く際に〔真摯さの有無〕〔相関関係と因果関係の区別がついているか〕などを見なければいけない。何を読むにしても、その記事内容が論理的で破綻がないかのチェックは必要だ。そのためには複数の本を読む必要がある。なぜなら人間はどうしても偏ってしまうからだ。常にバランスをとるというのは難しい。それに多方面からの検証を行うことで、何が事実で何が嘘なのか、何がわかっていないのかや今後どんなことが起こると推測されるのかがわかる。
 
 
この文章を読む人は文章を読むことに慣れている人だろう。それでも注意してほしい。「単語に惑わされない」ということを。
文章を「森」とするなら、文は「木」でそれを構成する単語は「葉」になる。葉だけを見ればどんな木かわかるが、その木がどんな形をしているかは木全体を見なければわからない。そしてどんな木が生えているか一本一本チェックしなければ、森の植生はわらない。一本の木だけではどんな森なのか決めつけることができない。だから木と木の相関関係と因果関係を理解しつつ読まなければどんな森かはわからない。文章を読むということは単語と単語、文と文の総関係と因果関係を読むということだ。この点に注意すれば、あなたが読む文章が論理的なのかどうか、または書き手が主題に「真摯」に向き合っているのかがわかるだろう。
 
 
ただ、専門家が書いた記事はある程度事前の知識や視点が必要だったりする。そうなると別途勉強が必要になる。
ぼくはこの21世紀は勉強の世紀だと考えているので、勉強し続けないと騙されると考えている。貧乏暇なしではなく、21世紀に生きる人は暇なしだなと考えている。
ぼくは元がオタク気質なので良いかもしれないが、オタク気質が低い人は大変な世の中だと思う。
 
 
 

20世紀生まれの君は21世紀という海に浮かぶクラゲを避けなくっちゃいけない(2)

無知の知と向き合う勇気「逃げちゃダメだ 逃げちゃダメだ ・・・」(『エヴァンゲリオン碇シンジ の言葉)という姿勢
 
 
恐れと好奇心は紙一重だ。恐れから差別が生まれ、恐れは無知の海を漂う原因になる。けれど好奇心は知識を得るきっかけになり、それは友好を生む原動力になる。
 
 
過去の経験やそして大学で文化人類学のレポートを書いた経験などから、差別を生む原因の中で「無知」が占める要素が意外に大きいことに気がついた。無知は相手や事象への恐れを生み、それは差別を作る。例えば、広島と長崎に落ちた原爆による被爆は、その当時差別を産んだ。それは放射線被爆や被曝の影響がよくわからなかったからだ。今でも、広島や長崎に偏見を持っているひとは少なからずいるかもしれない。少なくともぼくの周囲にはいないけれど。
 
 
ぼくは差別したくない。これは願望だ。実際はどうだろう? ぼくの中には厳然として「差別心」がある。無知からくるものだったり、コンプレックスからだったり「差別心」が湧いてくる原因を持っている。しかし、そんな感情や思いに気がつければ、「差別をしない」ことを自分の意思で選ぶことができる。だからぼくは「差別をしない」ことを選ぶ。そして「差別をしない」ためにも、「差別心」から脱出するためにも無知との格闘が必要だなと考えている。だから他人の投稿を鵜呑みにするのを止めた。
 
 
ぼくは自分とかかわりがある人を基本信じている。それはその人の意見を信じるというよりも、その人の本質的な部分を信じようとしている。だから意見が異なってもあまり気にしないのだ。それから自分の考えを表明するけれど、ぼくの考えや意見への同意を強制しようとは思わない。なぜなら対話を通じて、様々な問題点や新しい発見や改善策が導かれることを経験上知っているからだ。だから、これを読んでも鵜呑みにしたり、同意する必要はない。
 
 
対話をするためには争点への解像度をお互いに高めている必要があると思う。しかし、ぼくは人間には限界があることも知っている。だから全てのことを高解像度で観察し検証することは無理だ。それでも、自分が気になる問題があるなら、そこへ真摯に向き合うことは必要だと思う。その際にはやはり高解像で、広範囲を見なければいけない。そして広範囲を見るためには「ものを調べる技術」が必要だ。しかし、日本では残念なことに「ものを調べる技術」を教えていないから、皆独学だ。
 
 
物事への解像度を高めるためには知識が必要で、知識を得るには学ばなければならない。そして多角的に物事を見る意識もいる。でも、人間は残念なことに一度信用してしまうと「鵜呑み」に走る。よくよく調べれば根拠もくそもない、調査すらされていない情報が流れてきても、考えずに信じてしまう。
 
 
解像度と真摯さはつながっているなと最近思うようになった。良い加減な情報で危険を煽り、良い加減な情報で安全を煽る。どちらも低解像度で真摯さがない。得てしてそういう情報で使われる言葉は、ものすごく「軽い」。「軽い」言葉は耳触りが良いのかもしれない。でも、ぼくにはそこに「真摯さ」があるとは全く思えない。真摯さが足りないというころは、そもそもその情報の信憑性が低いということでもある。そしてその情報発信者へ疑問を呈すると、まともに答えてもらえない。そもそも信憑性の低い情報や、根拠もないものを拡散しているから説明する言葉がないのだろう。
 
 
説明する言葉がなければ、相手を拒絶する反応しかできない。それは自分の「無知の知」から逃げる行為だ。謝った情報を発信した際、その反論に対して拒絶反応を示すのは、多くの支持者を持つ人によく見られる。その人は名声という毒に犯され、「無知の知」と向き合う勇気をどこかに忘れている。彼らはチヤホヤされることが、自分の日常と化しているから、チヤホヤされて当然だと信じている。(ちなみのこの「拒絶反応」はその人間やその集団がカルト化する可能性をはらんでいることを示すものだ。)
 
 
自分の「無知」と向き合うには勇気がいる。恐れを抱いていては「無知」のままだ。それじゃ、やっぱり差別をしてしまう人間になってしまう。それはやはり嫌だ。ぼくは誰かを支配したいとも思わないし、支配されたいとも思わない。だからこそ「無知の知」と向き合う勇気を自分に欲するし、その勇気を持ち続けたいと考えている。
 
 
ものを調べる技術のおおまかなことは以前ブログに書いた。
(『誰でも発信できるからこそ必要な「ものの調べ方」』http://guiltygarson.hatenablog.com/entry/20140920/1411217210)これは入り口の扉の前に立ったのと同じ段階でしかなく、扉をノックすらしてないくらいの内容だけれど。自分のことや自分の周囲を守りたいなら、これくらいの姿勢は最低限あっても良いのではないかと、個人的には思う。
※今後のものの調べ方のところはもっと突き詰めていきたいと考えている。
 
 
 
 

前回の記事とかぶるけど、自分のものの見方の一片を書いてみた

みんな違うからこそ大変な21世紀に生きてるなと思う。
様々な意見がテレパシーというよりダダモレパシー化していってることを、特にぼくは感じて生きている。その中には非常に極端な意見や、嘘、本当、水増した内容などが含まれている。
特にFacebookのタイムラインは目に付く。目につくようにできているからなのだろうけど。そこには肩書きに騙されやすい人間心理や、自分の不安を肯定してくれる人の意見を無条件に受け入れてしまう人間心理が働いている。それが人間なので仕方ない面はある。これを書いているぼくにだってそういった失敗はあるし、今後も失敗するだろう。
 
 
ぼくは「常識」と書いて「糞食らえ」と読むことにしている。「正義」は「劇薬」だと思っている。「肩書き」は「高価な食器」で必ずしもその中身が食器の価値に見合うわけではないと考えている。
「常識」はたしかにある方が良いだろうけど、「常識」にこだわりすぎると思考停止する。常識なんてものは所変われば内容が変化する相対的なものなので、そこに捕らわれたがる意見に辟易しているのだ。
そして正義については、やはりそれを声高に主張する人たちの排外性を見ると「劇薬」だから取り扱い注意だなと思う。
肩書きは自分が代表という肩書きを持っていた経験から、肩書きはその人の本質を表さないと悟ったのだ。まあ、まったく意味がないものではなく、肩書きを見て盲信しちゃいけんよということなんだ。参考にはなるだろうけどね。
 
 
先日書いた「真摯さ」についてだが、真摯さというのは物事に向き合う覚悟を含めた姿勢だと思う。中途半端な知識で危険を煽ったりする人が目につくけど、そういう人は自分が書いた記事を書く前に調べるべきことや知っておくべきことを知らないケースが散見される。得てしてそういう人は持論のおかしなところを指摘されると、まともな反論ができない。なぜなら反論するだけの知識がないのだから、反論しようがないからだ。そんな人の中には「ネトウヨ」「サヨク」「キチガイ」などとレッテルを貼って、支持者に自分正しいアピールをする人も多い。そういった人の反応見ると、カルト宗教のように見える。持論への批判に対し説明義務はないにしても、説明するのは真摯さだと思うのだけど違うのだろうか?
 
 
ぼくらはすべてのことを知ることはできないし、勉強する時間も限られている。それでもやっぱり「知ろうとすること」はすごく大事だ。でも知ろうとする以前の知識の問題もやはりあるなと、最近感じる。特にここ4年ほどでその重要さを痛感している。そのせいか、友人知人の投稿内容すら鵜呑みにするのを辞めた。そしてそれにも当然理由があって、今は誰でも発信できる時代で、その情報量がとんでもなく激増しているからだ。そして、ぼくらは「ものの調べ方」を教わってはいない。そのためか日本人の大半の人は物事をどう調べれば良いのかを知らない。経験則的に身についている人もいるけれど、それは無意識で使っているから限定的にしか利用されていない。例えば、仕事でしか利用されていない。まあ本来ものを調べて伝える仕事であるはずの新聞記者や事象ジャーナリストが酷い記事を書いているのだから、よっぽど調べる技術の基礎を知らないのだろう。例えば昨年発覚した朝日新聞の「プロメテウスの罠」での吉田調書の内容を捏造した件。あれは偏向報道の最たるものだと思う。ぼくは嘘やデマで批判をすることは批判対象の後押しにしかならないとぼくは考えている。そんな意味でも朝日新聞には大いに失望した。
 
 
ぼくらは判断に迷うし間違うこともある。間違った時に謝ることや修正ができるかが、これからの時代には大事になってくると思う。だから自分が「正義」になってしまうと、自分に反対する者はすべて「悪」になるから、修正なんてできなくなるし、謝ることもできなくなる。それは嫌だなと思う。だからこそ「無知の知」(ソクラテス)を意識するべきだし、自分と異なる意見に耳を傾けなければいけないんだなと思う。これは自戒を込めて、そう思う。
 
 
これを読んでいる人間がどれくらいいるかは知らない。文だけだから読まない人もいるだろうけど、あえてそうしている。これから時々、ぼくが何を判断基準としているのか、そのためにどんな知識を持っているのかを書いていこうと思う。
 

20世紀生まれの君は21世紀という海に浮かぶクラゲを避けなくっちゃいけない(1)

人間の脳はサボるために知力を働かせるとぼくは思っている。考えすぎると頭が痛くなるからなのか、なるべく考えたくないのだ。それはこれを書くぼく自身も同じで、この考えたくない思考から逃れられない運命を背負っている。それが故に、ぼくはそこから逃げまいとしようと努力はしているつもりだ。だいたいが失敗しているのだが。

 

気がつけばノストラダムスの大予言は大外れし、21世紀になっている。そして21世紀になってから14年過ぎた。この14年間で何が変わったかというと、私たちひとりひとりが受け取る情報量が変わった。20世紀は新聞やテレビ、ラジオが主な情報源だった。しかし、今ではそこにインターネットが加わっている。インターネットでも大手マスコミが流すニュースのみならずフリーランスの記事や個人ブログ、TwitterFacebook、2chなど様々な情報媒体がある。IT業界で話題のビッグデータはそんな情報化時代を表した言葉だ。そしてこのビッグデータの時代は、過去にはわからなかった大手メディアの報道の質の低さが明らかにもなる時代となっている。

 

このように、当然すべての情報が正しいわけではなく、大手マスコミを含めて情報の精度は玉石混交、嘘やデタラメもあれば正しい情報もある。広大な情報の海の中で、私たちは泳ぎながら、嘘やデタラメというクラゲを避けなければならなくなったのだ。

 

クラゲに刺されると痛いのと同じで、嘘やデタラメは基本痛々しい。それを発信する側も痛々しいし、それにツッコミを入れるのも嘘やデタラメを発信する人と不毛な対立が発生するので、ツッコミを入れた人間に痛みが走る。だから関わらない、ツッコミを入れないということが常態化している。無用な対立は避けたいのは誰でも思うことだろう。真偽不明なことを調べるのが面倒だから、態度を保留しているのかもしれない。たとえそれが明らかに間違いだと知っていたとしても、対話や議論に慣れていない日本人は、そんな相手にツッコミを入れると喧嘩にしかならないことを肌で知っているから、誰もツッコミを入れない。嘘やデタラメを吐くのは簡単ですぐに広まるけど、正しいことは大概地味だからなかなか広がらないんだ。その間違いを証明するのは骨が折れることもあって、対費用効果は低い。

 

以前このブログではものの調べ方について、簡単に書いた(『誰でも発信できるからこそ必要な「ものの調べ方」)。最低限これくらいの知識とある程度の論理力があれば、そうそう騙されないはずだ。だけど、現実には高学歴の人でも騙されている。いや、騙されているというより、勉強の仕方を忘れているのか、それとも大学時代にレポートは誰かのを写して提出していたのかもしれない。ものを調べる技術が低すぎる人は、残念ながら学歴にかかわらず多いのだ。それは義務教育でものの調べ方を教えていないからだ。義務教育で学ぶ知識を使って調べれば、十分に嘘は嘘、デタラメはデタラメとある程度見破れるもんだ。日本の学校教育の欠点は知識を伝えることに偏重しているため、知識の使い方を教えていない。ものを調べるには文献を読み解けるだけの基礎知識が必要だ。それは義務教育の範囲で完全ではないにしても、ある程度は教えている。知識を使って調べた内容を検査し検討する技術を身につけさせることが、今後の学校教育では重要だとぼくは考えている。なんとなく調べ方をわかっている教員は多いかもしれないが、調べる技術を持っている教員は少ないのではないか? 調べる技術の向上を目指すなら、やはり教員へ調べる技術を身につけてもらう必要がある。この情報が溢れかえって漏れ出している世界を泳ぎきるために、当然教師だけでなく私たちにも、調べる技術や調べるための基礎知識は必要だ。

 

情報の真偽を自分で確認しなくちゃいけない社会になっている。ぼくは誰が発信者であろうと、基本その情報を鵜呑みにはしない。わからないことは「わからない」と態度を保留することにしている。人間は自分の信じたいことを信じる方が楽だから、自分の信じたいことを証明してくれそうな情報を支持しやすい。証明されていない単なる仮説であっても、自分に都合よい情報なら人は鵜呑みにしやすい。だから自分の心情に即した情報に惑わされてしまう、自分の頭の悪さを頭に入れておかなくちゃいけない。間違った時は謝らなくちゃいけない。それを避けたいなら、やっぱり勉強をしつづけないといけないと思う。嘘やデタラメの発信者とならないためにも、ぼくらは永遠に勉強をし続けなければならない。

 

今後いくつかの記事で、ものを調べるために最低限必要な視点や知識、ものの調べ方について書いていこうと思う。そのためここでは嘘やデタラメの具体例は出していない。次回はこの『20世紀生まれの君は21世紀という海に浮かぶクラゲを避けなくっちゃいけない』の基本姿勢について書こうと考えている。

「空気読む」というディスコミュニケーション

「空気を読めない」とよく言われる。しかし、そんなに空気を読んでどうするの? って思うのだ。

 

1年ほど前のことだ。その日ぼくはとある女性とデートしていた。その女性とは気が合うというわけではなかったが、とりあえずの精神で誘ってみたのだ。やはり元々気が合わないということもあって、内容は散々だったしそれからその人との付き合いはしたくないなと思うに至った。人間として付き合うのが無理と判断したのだ。その一番の理由が「対話」ができないだった。

 

その女性からぼくは執拗に「空気読めないな」と指摘された。はあ、まあ読む気がないですが何か? と思いながら話しを聞いていた。伝えたいことを察してほしいというハイコンテクストを他人に求めるのは、傲慢ではないかとぼくは考えているので、「空気読めない」という概念自体がぼくには希薄なのだ。当の本人はぼくに何を察してほしかったのかはわからない。それを尋ねても答えないのだから、コミュニケーションなんて一切成り立たない。

 

「空気読む」こと至上主義の人にとって、このエピソードは痛々しいだろう。痛々しいと言われればそれまでだ。しかし、このエピソードには日本人が「対話」慣れしていないという事実が含まれている。

 

そもそも日本は開国する江戸末期までほぼ日本国内、いや藩の中だけのコミュニティで一生が成り立っていた。まあ、人の移動が一切なかったわけではないけれど、同じ言語、同じ文化の中で過ごして来た。開国後、明治、大正、昭和を経て様々な文化、つまり異なる言語と文化を持つ外国人が入って来たのだ。対外戦争の経験として自国に攻め込まれたのは、蒙古襲来、薩英戦争、第二次世界大戦くらいだろう。大陸のように国同士が陸続きでないため、異文化との摩擦はそれほど多くなかった。

 

大陸では異文化同士の摩擦が歴史的に頻発していたため、対話をして相手が敵なのか味方なのかの区別や共通項を見つけ和解、協力することが求められる習慣ができた。しかし日本ではほぼそんな必要はこれまで感じることはなかった。

なぜなら、日本は異文化との摩擦をほとんど経験していないからだ。そのため日本は他国と比べると、言語に含まれる意味がほぼ似通っているハイコンテクストな社会となった。今のところその実情は変わっていない。

 

しかし今後は違う。ハイコンテクスト社会からローコンテクスト社会へ潮目が変わる時期になっている。外国のようなローコンテクスト社会になるかは別としても、これまでのようなハイコンテクストな社会ではいられない。すでにローコンテクスト化してきているわけだ。でも残念ながら、その事実に気がついている人は少ない。

 

ぼくがこの事実に気がついたのはTwitterでとあるやり取りを外側から観察していた時だった。Twitterという140文字同士のやり取りで議論や対話のやりとりがすれ違う様を見てきた。その原因は話者同士の主題にたいする「前提」が相違していたのだ。どちらも自分の前提を元にしてやりとりしているので、話しが噛み合ないのだ。これは普段の会話でも起こることだが、主題に対する「前提」が噛み合ないならその対話はすべてすれ違いが続く不毛で利益の無いものになる。前提が相違すると質問も的を得ないし、回答も的を得ないものになる。まずはお互いの前提をすり合わせることなんだけど、対話方法を習っていないのだからなかなかうまくはできない。知識人であっても、対話技術が低い人は多いとぼくは見ている。

 

対話には相手の考えを聞き出す技術と忍耐が必要だけれど、ハイコンテクストに慣れるとそんな技術も忍耐もない。だから「空気読めない」という言葉が使われるのだろう。

 

現在の日本はなんだかんだ非常に豊だと思う。様々な思想や音楽や文化が入ってきていて、人の趣味が多様化し人の思想も多様化している。それに外国人で日本に住む人も増えている。つまりすでにお互いのコンテクストの相違点は昔に比べると増えているわけだし、全く違うコンテクストを持っている人たちとの遭遇率も上がっているわけだ。

 

ハイコンテクストであれば難しいこと考えなくても良いし、口を開いてわざわざ伝えなくても良かった。でも今はどんどんローコンテクスト化していっているのだから、お互いの違いと共通点を確認する技術と忍耐が必要とされてきているとぼくは考えている。つまり時代の趨勢は「空気読め」という時代から変わろうとしているのだ。

 

さて、冒頭の女性であるが、とあるお好み焼きへ行った際、彼女は自己満足のため他人の分を含め、お好み焼きの写真を全て撮るまで食べることを周囲に禁じたことがあったらしい。しかも何度も取り直しをしたらしく、中にはお好み焼きの底が焦げた人もいたらしい。それから周囲の人は彼女との外食を面倒だと思うようになった。たぶん彼女とその時共にいた人たちでは「食事」に対する文化やコンテクストが違ったのだろう。彼女が空気を読めていればこの文化的な衝突は起こらなかったのだろうし、または周囲が対話で説得をしていればまた違った結果になったかもしれない。これは空気読めないやつの空気に仕方なく合わせてあげようという空気を、周囲が察し同意したのだろう。

 

空気を読まなきゃいけない文化では「言わなくてもわかるだろう」が蔓延する。それって結局コミュニケーションをサボってるのと同じなんだよ。そして今後は外国人の流入、文化の多様化によって価値観の違うひとが今よりもたくさん増えると思う。その時に「空気読めない」とひとことで片付けてコミュニケーションをサボるよりも、「対話」によって相互理解を深めコミュニケーションを試みた方が平和になると思う。「対話」の技術が今後はどんどん求められるよ。他人に「空気読む」ことばかり要求するあなたにはその空気を読む気ある?

敬語も結局諸行無常

普段使う言葉から諸行無常を悟る経験がある人はどれくらいいるだろう。

普段のぼくの仕事はサービス業。

お客様へ敬語を使わねばならない仕事だ。

しかし、今働いている現場ではどうやら誤った敬語が飛び交っている。それも残念なことに、平も上司もともどもに間違った敬語を連発している。生半可な知識だけあるため、すごくすごく気になる。

 

そもそも敬語とはなんぞや? ぼくは思った。たしかに今の仕事を始めてから、なんとなく習ってきたし使っているつもりだったのだが、実際のところどうなのだろうと今の惨状を眺めて思ったのだ。

 

そういえば国語の授業で敬語の授業を少し受けた記憶はあるが、実践して使うこと等ほぼ皆無であったがため、全く身に付かずに大人になってしまった。そして成人式からははや17年ほど過ぎてる(早生まれのため成人式の式は19歳だった)。そんなこじらせにこじらせてしまった人生で、今この敬語について「やっぱり必要かな」と思い始めたのだ。まあ、ここまで考えて、まともな敬語を使っている同年代や年上、年下はすっごく少ないので、それほど問題でもないのかもしれないが・・・・・・。

 

ということで、敬語について書かれている本を買って読んでみた。当然、それは自己研鑽を目指してでの行動である。ぼくは意識高い系人間なのだ!

だから、まずはこの本を買ってみた。

『失礼な敬語 誤用例から学ぶ、正しい使い方』 野口 恵子

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読みづらい。というか、何を書いているのかがわからない。誤用と正しい使い方の区別がつきにくい構成となってる。いや、それダメってわかるけど、じゃあどれがどう正しいのかわかりづらいところがいくつかある。そもそもターゲットがぼくのような敬語を中途半端にかじった人間ではなく、敬語や日本語に詳しい人向けなのだろう。

意識高い系を冒頭で自負したものの、まだまだそれには遠いようだ。

 

次に買ったのはこれ!

マンガ世代のぼくでも読みやすい。マンガと文章で優しく書かれている。

 

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この本は意識高い系初心者、ビギナー、または意識低い系でもとりあえず読める! ぼくのような中途半端意識高い系にはもってこいの本だった。

 

この2冊を読んで、自分自身に感じたことは「尊敬語」「謙譲語」「丁寧語」よくよく考えると意味はなんとなく憶えているのだけれど、実際には意識して使っていないということだった。

そして他の敬語に関する本をちらっと立ち読みすると書いてある本によって若干敬語に関する解釈が違う。

「〜させていただきます」

これよく職場で聞くんだけど。お客様に対して「〜させていただきます」というのは実は失礼なんだよね。でもとある敬語の用例をつらねた本ではこれOKになっていた(ので買わなかった)。

 

そもそも言葉ってどんどん変化するものだし、単語の意味だってどんどん変わるもんだ。

役不足」=もっと良い役職につく実力がありながら、下っ端のままのこと

「役者不足」=実力が足りないこと

を混同して本来「役者不足」と言うところを「役不足」と台詞をつけてる作品がほとんどだし、日常でもそう。この勢いだと誤用がそのまま定着していくんだろうなって思ってる。

 

(誤用)

「〜の形になります」

「よろしかったでしょうか?」

「〜いただき、ありがとうございます」

 

(正用)

「〜でございます」「〜になります」

「よろしいでしょうか?」

「〜くださり、ありがとうございます」

 

「いただく」「くださる」の違いは難しくて、どちらでも良い場合もあるんだけど、「くださる」が明らかに正しい場合でも「いただく」を使っている人多い。

「くださる」の主語はお客さんなど、自分と相対している他人が主語になる。

「いただく」は自分が主語になる。

この誤用も大多数に受け入れられているみたいだから、定着するんじゃないかなって思ってる。

 

そこまで考えると、いったい敬語ってなんだろう? 言葉ってなんだろうとぼくは迷うのだ。

この迷いはとくに小説を書く際、登場人物に台詞をつける際に生じている。

今現在多くの人間が誤用しているものを使うのか? それともなるべく正しいものを使うのか?

それとも登場人物によって使い分けるのか? 

そもそも自分が認識している敬語が正しいのか、正しくあり続けるのか?

諸行無常の響きは祇園精舎の鐘からだけではなく、敬語からも普段使っている言葉の響きにも含まれているのだろう。