点尊降臨!

「ぼくが何者であるかは、お前が決めれ!」 なんか創る人をやってます。

狩りから稲作まで

もともと歴史が好きなこともあるけれど、今は社会学に興味があります。
もともとの専攻が「国際関係」なので、異文化に興味があるのはあったのですが、グローバルからローカルに、そしてもう一歩踏み込んでって今は興味が動いています。

もともとの切っ掛けは今自分が関わっている日替わりマスターでBarを運営するプロジェクトからなんだけれど。去年、そのCommon Bar SINGLESについてプレゼンをさせていただいたのが切っ掛けです。

皆さんはカウンターというのが不思議な空間なのをご存知でしょうか?
カウンターにはそこに座ることで、全く知らない他人と会話を誘発する力が宿っているのです。知り合いのBarに年に何度か顔を出すのですが、だいたい初めて会った人と会話になります。当然相手が他者との交流を全く求めていない場合は別ですけれど。行けば、大概知らない人と色んな話をします。それは自分が関わっているCommon Barも同じ。

それはお酒があるから会話を誘発するのでしょうか? っていうとそれはちょっと違うと思っています。中にはソフトドリンクを飲んでる人もいるし、ぼく自身がアルコールに弱いから。
カウンターという一つのテーブルを囲んでいるのが大きな要素なんです。

そう考えるのには当然理由と言うか根拠があります。
地球の年齢、人類の歴史の長さには諸説ありますが、人類のなが〜い歴史で稲作/麦作を中心にした農耕文化が始まってだいたい8000年くらいらしいです。
その前までは、そして日本では紀元前の時代から紀元にはいって2世紀くらいになるまでは狩猟採集で食糧を得ていました。
そんな彼らが食べていたのは「肉」よりも木の実が中心でした。なかなか狩猟や漁はむずかしかったのかもしれませんね。
基本食糧の備蓄ができませんから、採取し狩ったものや獲ったものをみんなでわけわけして食べるのです。
食糧を得るには助け合いが必要です。当然人間は集団になって木の実を採取し、鹿やイノシシやクマなど狩り、魚を川や海でとっていました。
そしてみんなでわけあって食べていました。当初その集団、集落はかなりミニマムだったと考えられています。
なんで、食糧はみんなで食べていたのではないかと考えられています。
その記憶が意識するせざるに関係なく、細胞に刷り込まれているからじゃないかと思うのです。
それとも、ともに飯を食う、もしくは何かを飲んだり口にする行為というは「気をゆるす」ところがあるのだと思います。

ご飯をわけあって食べるという行為自体が「命」をわけあう行為と考えれば、気をゆるせない相手とはなかなか食事をともにするのは抵抗があるのじゃないでしょうか?
カウンターという一つのテーブルに着く行為は車座に座って食糧をわけあうのに似ている。ぼくはそう考えました。
テーブルを囲んでいるわけじゃないけれど、同じテーブルにつくっていうのが重要なんだと思う。


今、ぼくらが生きている世界は「麦」と「米(水稲)」が普及した上で出来上がった世界です。
この備蓄のできる穀物が人口を増やし、報酬という概念を産み、貨幣を産み、そして・・・この貨幣も今後形態を変化させていくようです。
麦と稲作をからめた話は今後気が向けば書きます。