点尊降臨!

「ぼくが何者であるかは、お前が決めれ!」 なんか創る人をやってます。

維新派 『夕顔のはなしろき夕暮れ』

冒頭から鳥肌が立った。
照明、音楽、空間そして観劇者を夢へ誘うような導入部分。

去年、岡山の犬島にて初めて維新派を観た。あの公演は干潟で演じるという試みだったが干潟が台風の影響で水が引かず、正直イマイチだった。それでも今回観に行ったのは、まだ維新派の本当の姿を観ていない気がしたから。
維新派は現代劇に分類される表現で話の筋を見せるという物語る要素よりも観念的なPlayをする劇団だなと。
そんな点では名古屋の少年王者舘と同じだなと思った。

まずはぼくの感じたところをつらつらと書く。
今回の公演は少年の夢であり、大人であった少年の追憶であり、少年だった大人と大人であった少年の邂逅を表現していたんじゃないかなと感じた。
そこには当然成長と遡りの歴史があってそれが連綿と続いて行く生と死の繰り返しの中で紡がれている物語なんだって表現されているように感じた。
ぼくらは子どもだったしもしかしたら今も子どもであるかもしれないけれど。
大人になってしまって、ぼくらは色々なものを得た代わりに色々なものを失っている。
そして子孫を残す事でそれを繰り返している。
都市や時代に潜む人間模様とその名残、そして現在が少年の夢、大人だった少年、少年だった大人の夢の中で交錯しぶつかり合っている。
そんなことを身体表現を使って、小道具を駆使して表現したんちゃうかな? 
そんなことを感じた。

今回の公演で何を表現したいのか? ってところの解釈は正直なところよくわからない。もしかしたら、なんも意味なんてないかもしれない。
演劇をよく観ない人にはこのデジタル全盛の時代にアナログな演劇を観る価値がわからない人もいるのかもだけれど。
正解がそうそうない世の中でぼくらは「常識」をつくることで自分たちの脳の負担を減らしているとぼくは思っているんだけれど。
演劇を見るというのは俳優の演技と舞台装置、そしてぼくらの脳のイマジネーションで補完しつつ鑑賞するコミュニケーションだとぼくは思っている。
筋がわかり易いほど脳の補完は少なくて良いけれど、筋が少ないほど脳は思考し考えイメージを補完しようとする。これは脳に結構なストレスを生じる。維新派の舞台は脳を酷使するから、好き嫌いは分かれると思う。
自分の脳でかんたんに解析してわかったつもりになるのも良いけれど、たまにはわからないものを感じるのも良いと思う。
維新派、来年も観に行けたら良いな。

「理解」「感じる」(遊気舎『剥製の猿』)

6月1日に遊気舎という劇団のお芝居を観てきました。
タイトルは『剥製の猿』

遊気舎の本公演を観るのはこれが二度目。一度目は去年の秋に神戸アートビレッジセンターで公演された『イイトコ』
『イイトコ』はわかりやすいお芝居で初めて遊気舎を観る人も受け入れられ易い内容でした。
今回の『剥製の猿』はわかり易さよりも「感じる」ということを重視した作りでした。
話の筋がわかり易く、展開もわかり易いものは簡単に話の筋を理解できるので最終的には「面白い」「面白くない」で大方結論がでるでしょう。舞台でのお芝居をあまり観た事がない人にとって、演劇を見るのはテレビや映画などのエンターテインメントのドラマです。それはわかりやすく作られています。
舞台はセットの転換が容易ではありません。なので、お客さんのイマジネーションを借りるところは映像作品より多いです。セットを簡素にして俳優の表現力を利用して、お客さんにイメージしてもらうところが舞台演劇には少なからずあります。『剥製の猿』のように感じる部分を強く出すということはお客さんに対して、脳の活性化をお願いする内容になります。一体このお芝居が何を意味するのか? ってことを考えることになります。

人間ってのは自分の持っている言葉で相手が何を話しているのか解析して理解します。持っていない言葉について理解するのは脳を酷使します。たとえ同じ言語を使っていても世代や地域によって、また家庭環境などによってもそれぞれが持っている言葉は違うのです。
わかりやすいということは、私たちがそれぞれ所有している「言葉」の共通部分が多く使われているということです。
今回の『剥製の猿』はその私たちが共有している「言葉」をある程度削って、あえて説明不足にしているところがありました。

私たち人間はどうしても「理解」を重視して「感じる」という点をないがしろにしているところがあるとぼくは思っています。この「感じる」を重視したお芝居はお客さんを満足させることができるかどうかという点ではかなり難しい部類に入ると思います。

今回の『剥製の猿』、正直なところ遊気舎が初めての人にはちょっとしんどい作りでした。
遊気舎を知っているお客さんにとっては劇中で執拗に示唆されていた「生」と「死」、いや「生きる」という点について何かを感じる機会になるお芝居だと思います。

生きるということ、誰かとかかわるということ。痛みとどう向き合うかということ。


評価はお客さんがお芝居についてこれたかどうかで分かれると思いますが。


本日千秋楽です。
もしお時間がある方がいらっしゃれば、大阪の日本橋にあるインディペンデントシアター2ndにてやっていますので、是非「感じ」に行ってみてください。


わかるよりも「感じる」ことを。

狩りから稲作まで

もともと歴史が好きなこともあるけれど、今は社会学に興味があります。
もともとの専攻が「国際関係」なので、異文化に興味があるのはあったのですが、グローバルからローカルに、そしてもう一歩踏み込んでって今は興味が動いています。

もともとの切っ掛けは今自分が関わっている日替わりマスターでBarを運営するプロジェクトからなんだけれど。去年、そのCommon Bar SINGLESについてプレゼンをさせていただいたのが切っ掛けです。

皆さんはカウンターというのが不思議な空間なのをご存知でしょうか?
カウンターにはそこに座ることで、全く知らない他人と会話を誘発する力が宿っているのです。知り合いのBarに年に何度か顔を出すのですが、だいたい初めて会った人と会話になります。当然相手が他者との交流を全く求めていない場合は別ですけれど。行けば、大概知らない人と色んな話をします。それは自分が関わっているCommon Barも同じ。

それはお酒があるから会話を誘発するのでしょうか? っていうとそれはちょっと違うと思っています。中にはソフトドリンクを飲んでる人もいるし、ぼく自身がアルコールに弱いから。
カウンターという一つのテーブルを囲んでいるのが大きな要素なんです。

そう考えるのには当然理由と言うか根拠があります。
地球の年齢、人類の歴史の長さには諸説ありますが、人類のなが〜い歴史で稲作/麦作を中心にした農耕文化が始まってだいたい8000年くらいらしいです。
その前までは、そして日本では紀元前の時代から紀元にはいって2世紀くらいになるまでは狩猟採集で食糧を得ていました。
そんな彼らが食べていたのは「肉」よりも木の実が中心でした。なかなか狩猟や漁はむずかしかったのかもしれませんね。
基本食糧の備蓄ができませんから、採取し狩ったものや獲ったものをみんなでわけわけして食べるのです。
食糧を得るには助け合いが必要です。当然人間は集団になって木の実を採取し、鹿やイノシシやクマなど狩り、魚を川や海でとっていました。
そしてみんなでわけあって食べていました。当初その集団、集落はかなりミニマムだったと考えられています。
なんで、食糧はみんなで食べていたのではないかと考えられています。
その記憶が意識するせざるに関係なく、細胞に刷り込まれているからじゃないかと思うのです。
それとも、ともに飯を食う、もしくは何かを飲んだり口にする行為というは「気をゆるす」ところがあるのだと思います。

ご飯をわけあって食べるという行為自体が「命」をわけあう行為と考えれば、気をゆるせない相手とはなかなか食事をともにするのは抵抗があるのじゃないでしょうか?
カウンターという一つのテーブルに着く行為は車座に座って食糧をわけあうのに似ている。ぼくはそう考えました。
テーブルを囲んでいるわけじゃないけれど、同じテーブルにつくっていうのが重要なんだと思う。


今、ぼくらが生きている世界は「麦」と「米(水稲)」が普及した上で出来上がった世界です。
この備蓄のできる穀物が人口を増やし、報酬という概念を産み、貨幣を産み、そして・・・この貨幣も今後形態を変化させていくようです。
麦と稲作をからめた話は今後気が向けば書きます。

伝えるということ

ここ最近感じていること。
自分の考えや想いを伝えるって難しいことなんだなということ。

人間いくら気が合うからといって隅から隅まで同じじゃない。気があうことが必ずすぐに通じ合うっていうことにはならないと思うんだ。
だから、忍耐強くあいての言葉を聞かないといけないし、伝える側だって知恵をこらさなきゃならない。
それは普段のコミュニケーションだけで言えることじゃなくて、音楽や絵画、映画、芝居にもいえることじゃないのだろうか?
一年くらい前までは簡単なものをいかに難しくするかってことを考えていたんだけれど、Common Bar SINGLESで複数の人と知己を結び交流する中で、また今の仕事をやっていく中で「伝える」ことの難しさを感じたんだ。
そこでやっと気がついたっていう。

お世話になっているクリエイターの方が「芸術とはいかにむずかしいものを かんたん にするか」ということを言っていたのだけれど、その通りなんだって最近は思う。
芸術となると、何をどこまで見せるかってところはあると思うけれどね。

Common Bar SINGLESについて 2

前回はホント簡単にCommon Bar SINGLESの成り立ちについて紹介しました。

今回はCommon Bar SINGLESがどんな場所なのか? について書いてみようと思います。
さて、Common Bar SINGLESとは一体どんな場所なのでしょうか? それは実際に関わっている人、関わり続けている人にとってどんな場所なのかということを述べるなら”3rd Place”「三番目の場所」となります。

3rd Place、つまり三番目の場所とは一体なんでしょうか?
自宅や家族を一番目の場所とするなら、二番目の場所は学校・職場となります。これ以外の場所、コミュニティが三番目の場所になります。
当然、学生なら自宅や家族、学校、そしてバイト先とそれぞれコミュニティがある方もいらっしゃるので、その意味では四番目になるのかもしれません。そんな細かいことは抜きにして書いてみますね。


一般的なサラリーマンやサラリーウーマンの方々は大概、仕事と家の往復で日々を過ごしているのではないでしょうか? その往復するだけの生活に別の場所・コミュニティを追加すると自分の世界が広がる。そんな場所が3rd Placeだとぼくは理解しています。
家と会社の往復が悪いとは言いませんが、一つ別のコミュニティに属してみると自分の知らない発見があるので面白いのです。
そんな場所の一つとしてCommon Bar SINGLESは曲がりなりにもやっているわけです。
良くも悪くも日替わりマスターのお店です。毎日違う人がお店に立っています。なので、客層がマスターによって変わります。客層が変わるということは、自分とは違う価値観や論理で生きている人との出会いがあるわけです。
一期一会かもしれませんが、その一瞬が自分の考えをよりよくするきっかけになったりします。これはこれで貴重な経験です。

これはぼくにとっての「SINGLESとは?」という話になるのですが、ぼくにとっては様々な人と関われる場所になっています。家と会社の往復では絶対に親密になれない人たちと繋がれる場所なんです。そしてSINGLESの一番の強みは常にそこに”在る”ということです。イベント的に発生する場所ではなく、常にそこにあるという点が重要なんです。そこに行けば、知らない人知っている人と会うことができる。
入れ替わり立ち替わるマスターによって媒介される人間関係がぼくにもたらした影響はものすごく大きいのでした。それについては後々なんとかまとめたいですが。

Common Bar SINGLESのコミュニティ力のスゴさを実感したのは、大学のマネジメントのスクーリングででした。講師の方が以前「ワールドミュージックバー」というタイトルでSINGLESでマスターをされていたことがわかり、すぐに意気投合したのでした。直接的にSINGLESで出会ったわけではないけれど、SINGLESという場所が存在しているからこそつながることができたのだと思います。
そんな意味でも、ぼくにとってCommon Bar SINGLESは重要な3rd Placeなのです。

書評「海辺のカフカ」

初めて村上春樹の小説を最初から最後まで読みきりました。
これまで『ねじまき鳥クロニクル』とあと、忘れたけどもう一冊挑戦したのですが途中で挫折。
今回Common Bar SINGLESに『海辺のカフカ』の文庫本が放置されていて、処分するとのことだったのでもらってきて読み始めました。
最初、誤って下巻から読み始めるハプニングがありましたが、途中から上巻に戻り上巻の最初から読み、無事に読み終えました。

物語は15歳の少年「田村カフカ」が東京から四国へ向かうところから始まります。内容はつまるところ「田村カフカ」そしてナカタ老人とその道連れの星野さんの自分探しの旅です。
「田村カフカ」は自分を失わないという名目で家を出、ナカタ老人は”はじまりの石”を探す為に東京都中野区を出ます。二人の旅路は直接交わることはありませんが、二人の旅路はある登場人物を通して交わることになります。
この物語でぼくが一番惹かれたのはナカタ老人の旅路でした。このナカタさんが居なければ、ぼくはこの小説を読みきることは到底できなかったと思います。それほどナカタさんの旅路は、そしてナカタさん自身がぼくにとって魅力的でした。
下巻の最初にナカタさんが出てくるのですが、ぼくはそこでうまい具合にナカタさんに興味を持ちました。もしかすると下巻から読んでいなかったら、また挫折していたかもしれないな〜と思います。

作家の小川国夫先生が小説を読むことを主人公と旅をすることという風に述べていましたが、この『海辺のカフカ」はまさにそんな小説でした。
ぼくはナカタさんに引き連れられて旅をしたように思います。そしてそのおかげで「カフカ」少年の青い旅路にもなんとかついて行くことができたのだと思います。

率直な感想『事件の夢、夢の事件ー多羅尾伴内の世界 千年女王編』オリゴ党

本日、と言っても日付は変わっているが、職場の同僚が主演のお芝居を観てきました。
場所は大阪市天王寺区にあるお寺が経営しているシアトリカル應典院。2年以上前だと思うんだけれど、ピースピットの『Mother』を観に来て以来で、ここに来るのはこれで2回目でした。

お話の内容は、引きこもりのアムロ レイイチが夢の中で出会った女性ヤヨイに会いにミャンマーに行った、というか行ったんだよ〜多分という話です。アムロが自分自身を探す物語であり、自分がないというヤヨイをアムロが救う物語なんだろうなと観劇後感じました。話の転換点にタイトルにもある「多羅尾伴内」が重要な役割を果たします。その多羅尾伴内を劇中に出す為に探偵とその助手が多羅尾伴内を探しにミャンマーに行った設定になっていました。

夢なのか? 現(うつつ)なのか? は判然とさせない演出がされていました。
さっきはこれは夢って言ってたから、こんどは現実のお話なのか? と思って見ていると「夢だよ」みたいな演出でした。だから、観客は夢か現実かの仕分けができなくなったと思います。
そう、今自分がその両の眼を通して脳で認識している景色が現実なのか? それとも夢なのか? 本当にわかるの?という良く言えば”問題提議”悪く言えば”わかり辛い”という諸刃の剣な芝居でした。
もともと引きこもりのアムロ レイイチが夢で実際には一度も会ったことのないヤヨイに呼ばれて飛行機でしか行くことのできないミャンマーまで行くのだろうか? と思ったのですが、そこは夢かもしれないので有りなんですよ。舞台に立っている役者というかキャラたちも夢? 現実? たぶん夢かな・・・くらいの勢いだし、観ている観客にとっても舞台でのお話の設定が現実なのか? 夢なのか?はよくわからないのです。

この手の芝居はこれまで子供鉅人や少年王者舘などで観てきましたが、今回観て強く感じたのは観念的なお芝居というのは私たちの脳という存在のいい加減さというのかな。脳はすごいものではあるのだけれど、エラーを時々起こすというところをフォーカスしている芝居になると感じました。私たちが見ているものの全ては脳がそう認識して初めて見ているのです。つまり、両眼はあくまでも映像を捉える為のレンズに過ぎない。脳のいい加減さが大きく扱われている作品になるのです。なので娯楽作品かと言えば、そうではなく好き嫌いが分かれると思いました。

脚本上どうかな?と思うところが正直あって、つまりネタをどう芝居に織り込むかという点で難しいと思うところがありました。
これを読んでいるみなさんは「アムロ」と聞いて誰をまず思い浮かべるでしょうか?
ガンダムアムロ・レイでしょうか? それとも歌手の安室奈美恵でしょうか? 主人公は男性なんでガンダムを知っている人はすぐに「アムロ・レイ」だったかもしれません。
『事件の夢、夢の事件ー多羅尾伴内の世界 千年女王編』は「アムロ」でガンダムをイメージさせて、「アニメ」という言葉の印象を現実とは真逆の意味で観客に考えてもらおうとしているところがありました。
なので、「アニメじゃない♪ 本当のことさ〜」というから始まる、三作品目のガンダム『機動戦士ZZガンダム」のオープニングネタが導入部分で使われていました。ぼく自身は結構『ZZガンダム』は好きですが、作品としてはマイナーになると思います。しかも作品としてはもう20年以上前のものだし、記憶に残っている人も少ないし残っていても印象を強く残すことは難しいと思いました。
アニメという言葉をイコールで幻想や妄想とつなげようとするなら、もっと別の表現を先にしておいてこのネタを仕込むなどの工夫は必要だったかもしれないなと思います。陸上競技の種目で三段跳びを行なうとき、ホップとステップを飛ばしていきなりジャンプをしている印象がありました。
ネタの仕込みの困難さを強く感じました。

作品自体はタイトル通りで、その意図は達成されていると思います。
ぼくは結構娯楽作品が好きなので、もう少しわかりやすくしてもらえると良かったかなと我がままを申しておきます。